魔力患者閉鎖中
黒服の血液悪魔がその兵士を昏倒させ、博士がラーメンを名残惜しそうにしているのを引っ張って店の外に出ると、バームクーヘンの中心にいるように取り囲まれていた。用意がいいなあ。
「軍に対する反抗は鎮圧されねばならない。そうだろう、デリロ博士」
ざっと前に現れそう言ったのは、高級感を若干鼻につかせる白い軍服を着た男だ。軍ってやつは男ばかりだ。たまには妖艶な女性に登場願いたい、と思った。
「きみがきたということは、わたしたちが相当重要な立ち位置にいると理解されたわけかな?」
博士が口をとがらせる。頬には苦さが走っていた。
「ムロヅキからなにか吹き込まれたか。それほどうまい男だとは考えられなかったが……」
「ムロヅキ? ああ、あのカエル男かね。あんな奴一人の言動で軍が、ましてや俺が直々に動くものかね」
わりと気軽に軍が動いているイメージのあった僕は、そうなの? と黒服に尋ねた。あいつらのことをいちいち気にしないほうがいいぞ、と忠告される。なるほど。
「そこの青年が魔力患者であることはわかっている。すべての魔力患者は軍の管轄におかれなければならない」
どうして? 率直な疑問。
「人が人であるように、そう決められたからだよ。一足す一が二であるように、皆がそういう共同幻想を抱いたからだ。軍の権威も幻想だ。しかしどうやっても従わねばならない幻想だ」
彼の答えは意外にも僕の満足に届いた。本当に意外だった。第一印象からして唐突に軽挙妄動を発し、迂闊さの中で死んでいくタイプであると錯覚したが、どうやら多少は生き残るのかもしれない。
「さて、その魔力患者を渡すならば、デリロ博士と絶対共同体には手を出さないと保証しよう」
男の誰に語っているのか判然としない口ぶりに、黒服は臨戦態勢で答えた。
「その自信はどこからくるのかな。わたしが作った絶対共同体は、きみらに負けるほどヤワではないよ」
そう言う博士ではあったが、なぜか自信はなさげだった。なにかを疑っているふうでもある。僕は、人はいつでも疑心暗鬼になってよろしいと思うが、博士には似合っていなかった。
男が腕をざっと振った。大雑把で軍的なきびきびさはなかったが、周りの洗練された軍人たちは一斉に反応する。梅干によって刺激され、唾液がじゅわっと広がるようだった。
彼は重火器を持っていたが、使われなかった。後方に待機している連中は静かに構えている。実際に仕掛けてきたのは大型のナイフを持ったやつらだった。暗殺者もかくやといった滑り出しで黒服を狙う。
黒服が負ける要素はなかった。僕の思いというより、習慣としての常識がその判断を下す。軍人の働きは悪くなかったが、蜜を集められても巨人は倒せそうにない。
血の使い魔が正確に頭を打つ。ばったばったと昆虫のようにぐったりする数が増える。
ところが途中で、まだ相手の半分も倒れていないのに、血液悪魔が一時停止ボタンを押された。黒服の動きも鈍くなる。
「なんだと?」
「くっ……」
博士も戸惑っているが、黒服自身も異変に理解が及んでいない。急に衰えた老人となり、蹴りが間抜けなシャドーになる。あっという間に抑えられてしまった。
「おやおや、どうしたかね」
愉快そうに男が言った。誰かが愉快だと、どうして不愉快になるんだろう。
「なにを、した」
びりびりと静電気に支配されたように、黒服の体が細かく震える。
「俺はなにもしていない。己の胸に聞いてみたらどうだ」
「まさか、悪魔が?」
博士はぶつぶつと熟考のモードを披露した。こんな状況で大したものだ。皮肉でもあり素直でもあったが、つまりこれは窮地なのではないかと僕は頭をかく。
「軍と手を結ぶなどありえん。軍を利用する算段をつけた? いやしかし異方者の不利はいかんともしがたい。そもそも時間の問題だったとはいえ、革命者が独立した以上、悪魔も人間に合わせたというのか? やつらにとって論理的ではないが……。むしろこれからが悪魔の計画の内側に寄せられる、とでも」
お悩みもいいんだけどさ、どうやら連行というやつらしいよ。
僕と博士は身柄を拘束された。手を後ろに回され、錠をかけられる。博士は気づいていないのか、ぶつぶつつぶやきながらされるがままになっていた。あれだと知らないうちに溺れたりできそうだ。
黒服は直接拘束具はつけられず、檻に入れられた。動物園にでも連れて行かれるのだろうか。確かにたくさんいる姿は見ものではある。
手を出さないって、言ってなかったっけ?
「ふむ、確かにおまえを渡す結果にはなったな。なるほど、約束は守ろう」
本当に男が部下に指示するのを聞いて、なんなんだこいつ、と僕は困った。
「だが、いったん自由を封じておかないと物事がスムーズに行きかねるのでな。まあ、しばらくは我慢してもらうとしよう。そのうちに解放する。アマイくんだったかな。俺はゼルバ。軍の現場総指揮官だ。短い道中だがよろしく頼むよ」
僕の呪的発声によって事態を打開できなくもないと予想はしたが、黒服が動かなくなったのが気にかかる。僕は僕の能力、病を最終手段にすることに決め、成り行き通りに進むことにした。死にそうになったら、使うとしよう。魔力は体に満ちているが無限ではないようだし、消費がどういったものになるのかわからない。珍しく僕はそういう計算をしたわけだった。僕がおぼえている範囲では、精々最大で五人ばかり殺したに過ぎないのだから。
乗せられたのは軍用ジープではなく、メーカーのわからないセダンタイプだった。僕は車のメーカーなんてガダビエレしか知らないからどうでもいいけどさ。
わざわざシートベルトを着用され、背中と背もたれで手が圧迫される状況になった。本気で苦痛だったが、どうしてかそのままにされた。ある種の軽い拷問だろうか。
やがてたどり着いた軍の施設は、イージー・マスカットに似ていた。デザインも違ったし柵はなかったが、構造は同じようだった。
中に入れられると、内装もやはり似ていたが、全体的にグレイがかっていて、くもり空を思い出す。ああ、僕は空が好きなんだ、と気づいた。
受付の女性が美人だったので、ここがイージー・マスカットでないことは確実だった。もしかしてあのパイぶつけ顔の存在こそが、イージー・マスカットを決定するのかもしれない。定義というやつは、簡単に決められるものだ。僕を僕とすれば僕になるように。
軍人以外にも人がいたが、明るい者はいなかった。気分がよくなって、これから連れて行かれるところはどこだろう、と想像を膨らませる。ベーキングパウダーの分量と焼き加減を間違えて、まったくおいしそうにはならなかったが、硬そうなパンにはなった。クッキーを作りたかったはずなのに、おかしいな。
「ここに入れ」
ゼルバが大きな扉の前で立ち止まる。拘束を解かれた僕は血流をよくしようとマッサージする。
扉は象向けなのか、横幅も縦幅も人類が使うには不釣り合いだった。ドアノブに手をかけて力を込めて引っ張るが、びくともしない。
「押すんだよ」
……ああ、知ってたよ。
それでも重かったが、なんとか扉は動いた。ごごご、という効果音すら聞こえる。隙間から見えた様子に反射的に締めてしまいそうになったが、覚悟して完全に侵入した。
とてつもなく大きな広間だった。コンサートホールとして差し支えない。柱があるほかは空間を占める人間以外の物体はない。人間の量が直視できないほどであるが、とりあえずはそう思った。
ずらりと並んだ人々。それだけで人間性を排除したかのようだった。個を読み取れず、集団にすべてが埋没している。顔、顔、顔。ホラー的な光景に僕は目を閉じてしまった。
「彼らは魔力患者だ。おまえと同じな。ここで一日過ごしてもらう。一日で済まないかもしれないが、それはおまえ次第だ」
なんだって? 僕は悲鳴じみた声をあげた。ここにいろと言うのか。
「ここには多少の魔力が供給されている。それだけでおまえらは大した不自由はしないはずだ。言っておくが、魔力の安定供給なんぞ、贅沢中の贅沢なんだからな。ここは牢獄ではない。まあ、ここにいなくてはならないという制約は、牢獄的だがな」
咄嗟に僕は自由衝動に基づいて、呪的発声を行使しようとした。その前にゼルバの腕が部屋の奈落へと僕を落とす。ちくしょう! 叫んだ。閉じかけた扉でゼルバの無表情が見える。悪魔のささやきのようだった。妙な直感が僕に霊を乗り移らせる。悪魔が僕をここに入れたのだ。魔力を用意すると言ったのはこれなのか。僕には十分な魔力があるぞ。あの食堂に戻る! 現実化しない。なぜだ。疑問を浮かべる。魔力が足りないのか。違う。振り返った。ここにはあらゆる神話性現実化が交差していた。僕はそのノイズに対抗できていないのだ。
ふざけるな!
周りの魔力患者は不思議そうに僕を見ている。その不思議さが僕には不気味だった。