悪魔、言うこと
ガラハロンドル・ナックトイテを含めた革命者たちが現れたのは、嵐らしい嵐はおさまった後で、僕にとってとてもタイミングがよかった。
なにせ洗脳子を倒してからも、フィカソトリアに灯った炎の勢いは衰えることがなく、矛先が僕に向いたからだ。獣にしては理性的で生物にしては秩序的な凌辱の腕が伸びようとしていた。博士は考えごとに夢中になって助けてはくれない。黒服は倒れた洗脳子を拘束するのに、労力と時給の対比を都合よくしようとしているのか、やたらと時間をかけていた。
誰にしたって彼女を止められるわけもないが、今まさに傷つきそうになっているときに他人が無関心を表明していると、螺旋状の無限穴で光を目撃しながらも遠く落ちていきそうな気分になる。
フィカソトリアの唇が首に当てられた。噛むように吸われる。地面に倒され、あちこちをまさぐられる。
真空でもがく労働者がつるはしを片手に虹を見る。このまま一生働いて、年老いていくのかな。汗が頭皮、額、眉間、鼻、頬、顎、と流れる。雲が描く終わりのサイン。意地汚いうさぎの幻影につられて、薄い月が拡散する。
僕は柱のように動かずにいた。一種の耐震構造として精神はぐらぐら揺れていたが、張り巡らされた糸の一本一本に至るまで硬直し、勤めて死んでいるように生きようとした。死んだフリ。あるいはフリのまま死んでしまうのかもしれなかったが、諦めてはいなかった。
出会いがしらのフィカソトリアに感じたものと今回は違う。今回は、理解できそうなものだった。性的であったり感情的であったりだ。しかしこの延長線上にあれがあるとするように思うことはできた。程度の問題か。考えるのをやめた。考えるだけで死にそうだったから。
精一杯人形化はしないで、己の自由を限定的に勝ち取ろうとしていると、ジャケットが脱がされる前に空気の流れがあった。
「因子の活性化を強く感じたが、きみだったか。……なにを興奮しているんだ?」
助けてくれ。
ガラハロンドルならばいけるかと懇願する。義理はないが、この事態のおかしさを解消するのは義務ではないだろうか。
「おふざけよりも説明をしてくれないか。あー、フィカソトリアだったか。洗脳子はきみがやったのか?」
ガラハロンドルはねずみに食い散らかされたちくわのようだった。ねずみがちくわを食べるかどうかは知らない。衣服ぼろぼろ。もう僕とは趣味が合わない。そっちのほうがふざけてないか。
「そうだ、彼女がやった」
答えたのは博士だった。ようやく思考回路を通常運転に戻したらしい。
ガラハロンドル以外の革命者も、彼と似たようなものだった。怪我だらけぼろだらけ。
「完成した洗脳子を、一人で? ぼくたちは逃げ帰るしかなかったのに。……因子の活性化を皮膚で捉えられたはそのせいか。革命の因子について、ぼくはまだなにもわかっていなかった、ということかな。」
落ち着いて会話をしている場合じゃない。
ズボンをずり下げられそうになって、僕はレスキューを願った。やれやれとばかりに革命者がフィカソトリアを引きはがす。わりあいに簡単で拍子抜けした。
「ムロヅキがいないな。さすがにあの光景を見せられては退かざるをえないか」
気づいた博士が言った。
不死性を発揮した洗脳子に対し、すがすがしいほどの暴力を振るったフィカソトリア。洗脳子の全滅に、カエルのなす術はなかった。
「予想通り、イージー・マスカットのタケミチからすれば予見通りに、洗脳子は完成し、戦争加担人になった。僕らには完成してから抑えられる自負があったが、正しくもあり間違ってもいたわけだ」
ガラハロンドルが明瞭な顔面を渋くした。
「タケミチは戦争加担人を作ろうとしていたのではなく、革命者を超える存在を創ろうとしていた。細かいことだが、訂正しておく。そして彼の見積もりは甘かった。結果が出ると、なんだか寒くて、寂しいものだな」
しわくちゃの博士とガラハロンドルが並ぶと、おみやげの置物みたいで面白かった。
「洗脳子をどうする」
「どうしたものかね。このままにしておくと、また革命者に明確な敵意を持って行動するだろう。わたし個人としては、できる限ることを荒立てるのは異方者と、それに組みする悪魔に留めておきたいところだ。あと、軍か。扱えない洗脳子を管轄におけないし、きみたちが見逃してくれるとも思えない」
「そうだな。ぼくらがすぐに戦闘を開始しないのは、状態と状況を踏まえているからだ。洗脳子にはやられるし、異方者と悪魔との同盟は破棄されたし、化け物じみた同志、フィカソトリアを発見するしで、革命者は混乱中だ。正確には整理中かな。軍に仕掛ける力を準備しておく必要もある」
「またオフェンスか。少しばかり待ちをおぼえてはどうかな」
「因子を持ち、革命を遂行するから革命者なんだよ」
僕は話の半分ほどで、太陽の光に目を細めた。昼と夕方の間だろうか。身に染みる陽光だった。処分、拘束、軟禁、といった物騒な言葉が飛び交っているようだが、眠気に誘われてそれどころではない。フィカソトリアはとりあえず離れた。落ち着きはないが、僕に用事がある人もいない。昼寝を決め込んでもかまわないだろう。そこでここが駐車場であることを思い出し、ベッドを探そうとよろよろ起き上がった。なんでみんな病院の駐車場にいるんだ。おかしいぞ。
「……フィカソトリアはいったん預かるが、またそちらに行くだろうから頼む」
ガラハロンドルが言った。どうやら僕に向けられたようだ。
なんで頼むんだよ。
僕は泣きそうになった。いや、泣いた。泣くだけで済んだのだから、褒められても罰は当たらないよ。間違いなく体をぺしゃんこにする重りを投げるぞと言われたんだからな。
「彼女ほど因子を活性化できれば……無理だな。しかし少々試したい」
嘆きに耳を貸さず、自分とのコミュニケーションを始めたちくわに、僕はぐったりした。
拾ってもらった消しゴムを受け取る僕の手のひらはどこか曖昧で、そのままだとまた消しゴムが地面に落ちてしまいそうだった。
クラマサの微笑みも、ゆるやかなイメージの中で崩壊していた。つなぎとめていたサラスナの一言一言が、ヒラタの情けなさが、フフクベの雑さが、こぼれていく。
「…………多重に行使される神話性現実化病はどういった形で現れるのか、僕らの能力にかかっている。つまり人間についてどうやって定義できるのか、想像できるのか、線引きを不明瞭にするのも手段ではある」
「前例がないだけだ。現実化は現実化だろう」
「神話性に期待するしかないんじゃない?」
「あるいは考えるべきなのは、生まれてしまった後、ではないでしょうか」
「それ自体が危険であると?」
「肉体と魔力の境目がない以上、魔力爆弾の影響を十分考慮しなくてはなりません」
誰だ。おまえたちは誰だ。僕か。僕だというのか。
すべては用意されているはずなのに、パズルのピースは欠けて、海に飲まれた塩が尽きるのを待ち続けた。
起きたのはベッドではなくてソファーだった。
壁にかけられた油絵に目がいく。だだっ広い、砂漠のようななにもなさを草に置き換えた原っぱで、鎧を着て剣を振りかざした人々が羊に乗って狼を追いかけていた。羊の顔は怒りに燃えて残虐なほど凄み、毛をまとった肉体は筋肉を皮膚よりも早く外側へ放出させる躍動を持っていた。
追いかけられる狼は、大きな体格に鋭い牙を備えていたが、どうも気迫が負けている。マスメディア的操作が宿っているのを感じて、眺めるのをやめた。
部屋は間接照明のみで薄暗く、夕方を小さくしたようだった。暖炉があったが火はついていない。そのわりになんだか暖かかった。
僕のいるソファーは部屋の隅のほうにあるようで、真ん中には脚の長い丸テーブルがある。囲むように皮ばり椅子が並んでいた。壁際にはいくつか本棚がある。書斎と居間を足して二で割ったようなところだった。
「お目覚めですか」
僕が気づくより早く、部屋の主は声をかけてきた。そいつの姿は起きたときから見えていたのだが、なぜか気づけなかった。まるで、そいつが許可したから気づけたような。
どこだここは。
眠っていたようではあったが、いつ眠ったのか思い出せない。ベッドを探していたはずだ。探したまま眠ったような感覚。
「お呼び立てして申し訳ありません。緊急の用件ができてしまったもので」
誰だ、あんた。
「わたくし、悪魔でございます。我々は自分で悪魔とは名乗りませんので、ま、あなたがたによれば、というわけではありますが」
悪魔?
そいつは悪魔には見えなかった。どちらかといえばサンタクロースだ。ナイトキャップのような帽子をかぶって、ひげは生えていないが真っ白な髪が胸まである。造形は全体的に希薄で、小麦粉みたいだった。
悪魔っぽくない。ぶーぶー。とヤジを飛ばした。
「悪魔らしさ、などというものはないのですが、まあそうかもしれません。あなたの言っているのは見た目だと思いますが、それはどうしようありません。しかしその他、悪魔の現世界への意思伝達については、最近負け続けで、わたくしも我々らしくないなとは思っています」
僕はこうやって急に話を進められることに慣れているのかもしれなかった。突然知らないところに連れてこられるのも。帰りたいとか、話を聞きたくないとかではなく、終わらねえかな、が僕の最優先になっていた。
「妥協をする必要があります。我々は目標を低く設定しなおすことにしました」
はあ。鼻でもほじっちゃおうかしら。
「あなたに関係のある部分から説明しますと、まずあの革命者、フィカソトリア・ジェクピアートとあなたがともにいられるよう、我々は便宜を図ることにしました」
僕は鼻の穴に入れかけたひとさし指を向け、死ね、とはっきり言った。