透明人間
私の好きな場所には共通点がある。
ひとつ。静かなこと。
ひとつ。誰もいないこと。
今日も今日とてお気に入りの場所で、私はごろりと寝転がったまま空を見上げた。
曇天。
青い色彩など欠片も見えない。
今は放課後でここは学校の屋上。いかにもそれっぽい『立ち入り禁止』の看板(細部にまでこだわった私の自信作だ)をドアノブと階段の降り口の所に引っさげて、屋上をプチジャック中。
お決まりのように給水塔がある他より高い場所(ようは屋上の扉のすぐ真上だ)にいる私。
ひねりがなくても、ここは私のお気に入りの場所。馬鹿だから高いところが好きなんだ。うん。
曇り空では日暮れさえもよく確認できないけれど、日は確実に、そしてローペースに雲の向こうで西に沈もうとしているだろう。(沈むという表現は本当は適切じゃないかもしれないけど)
今日も一日、何も起こらず。平和に平和に終わっていく。
寝転がったまま目を閉じると、校庭で部活をしている連中の声が良く聞こえてくるような気がする。
私はゆっくりと息を吐いて、またゆっくりと息を吸う。
いつもこうやって深呼吸をすると、私の嫌な所を全部二酸化炭素と一緒に吐き出して、欲しいなと思うものを酸素と共に吸い込めればいいと思う。
この深呼吸と言う行為でそれが簡単にできればいいな。
私は部活にも入っていない。
委員会があるわけでもない。
掃除ならとっくの昔に終わって、帰りのSHRだって終わったのは一時間前。
帰宅部の生徒は家に帰るやら塾に行くやら寄り道するやら遊びに行くやらしてるだろう。
青空だったらよかった。
この曇天を見上げて思う。
青空だったら、きっと。時間が止まってしまえばいいと願っただろうけど。
この曇り空では夕焼けも見えない。
オレンジ、ピンク、スカーレット、ヴァイオレット、ブルー。
そんないろんな色が混じる夕焼けは、とても綺麗なのに。
私は夕焼けを見にここにきたんだっけ?
曇天はそれこそ朝からだったから、そんな事はないとすぐに否定する。じゃあどうしてここでぼーっとしてるの?
ああ、どうしてだろう?
誰かを待ってるの?
そんな事あるわけがない。私は常々、自分が透明人間になればいいと思っているんだから。
じゃあ何がしたいの?
何したいんだろうね? 本当。
答えの出ない自問自答の合間に、耳がおかしな音を拾った。
風の音に混じって何か聞こえる。誰かが歩いてくる足音。
そして屋上の扉の開く、ギィ、という重い音。
それから、また足音がして、それはまっすぐに給水塔に続く梯子を目指し、誰かが上に上ってくる、気配がして。
仰向けに寝っ転がったままの私は目を閉じた。
誰がきたかなんて知らない。知らないけれど本当は知ってる。
だから目を瞑る。
透明人間に、なってしまえ。
「やっぱここか」
上から声が降ってくる。すぐ側に誰かが立った気配がした。見下ろされている。それがわかる。
「おい」と肩に何かがあたった。軽く足で蹴るようにつつかれたのだとすぐにわかった。
「無視すんじゃねーよ」
上から降って来る声が近くなる。きっと側にしゃがんだのだろう。
また体に何かが触れる。今度は指だろうか、はじかれた額に一瞬だけ痛みが走る。
「おい、柚」
呼ばれなれない私の名前が落ちてきた。
大体クラスメイトも知り合いも全員名字で呼ぶから、名前で呼ばれるのは本当になれない。もちろん家族に呼ばれるのはまったく別だ。でもこの声の主は家族ではないから、やはりなれなくて背中がむずかゆくなる。
「てめぇ、起きてんのは知ってんだ。いい加減にしねぇと襲うぞこら」
またおでこをはじかれる。
声は低いし相手が不機嫌になってるのがわかる。
そろそろ目をあけなければと思いつつ、やっぱりまだ目をあけたくない。
ああ透明人間になれ。
早く。
「……上等じゃねぇか」
早く。
何かが近づいてくる。ああ私はそれが何なのか知っている。
コンクリートの上に散らばる私の髪を誰かが撫でる。乱暴なようで優しいと思ってしまうのは錯覚か。 誰かなんて分かりきっている答えを求めもしない。
とうとう観念して目をあけると、間近まで迫っていた見知った少年の顔がぴたりと止まる。その目は明らかに私を睨みつけていた。
残念、今回も透明人間にはなれなかった。
そう言えば間違いなく頭をはたかれるのは必須なので、無難に頬の筋肉を動かして言った。「やぁ高井出」
見るからに不機嫌そうな顔も見慣れたもので、この男はいつも飢えたような目をしてるなぁと何となく思った。
何に飢えてるのかなんて知らない。興味ないし、私には所詮関係のない事だ。
無駄に綺麗な顔をもつ人間は、不機嫌な顔も綺麗に見える。この不思議な法則をいつか解き明かしてみたい。
「随分遅いご登校ですね、高井出くん」
「うるせぇ」
「こんな立ち入り禁止の屋上に何の御用で?」
「屋上に用はねぇ。お前に用がある」
そうして起きろ、と続けるのは傲岸不遜なクラスメイト(出席率はいつもギリギリだ)で。
命令されれば嫌と言ってしまいたくなるのが私の私たる所以なのだ。
「い」
「嫌とかぬかしやがったらどうなるかわかってんだろうなぁ?」
「……やー…どうなるんでしょうねー…」
目の前の男の顔はますます歪んでいる。そろそろ本気でヤバイと頭の中で赤信号が点滅する。
仕方なしにのろのろと起きようとして、あることに気づいた私は「あー…の」と控えめに呟いた。
「あぁ?」
「起きるから、上からどいてほしいかな、と」
「………ああ」
私の上に覆い被さるようにしている不機嫌顔のクラスメイト。その事実を本人も思い出したのか、納得したように頷いた、かと思えば。
「…やっぱ起きんな」
僅かな沈黙の後、突然意見を180度転換させやがりました。
そしてそのまま人の上にのしかかってくる。
「ぎっ、ちょっ、あんたっ、馬鹿重いっての」
「うるせぇ。耳元で叫ぶな」
「叫ぶってのっ、って、力抜くな圧し掛かるな、え、ちょっ、マジでギブギブギブギブっ」
「黙れ」
自分勝手な意見ばかりを通そうとするクラスメイトは、そのまま私の体を押しつぶしつづける。
本当に本当に苦しんですが。
普通に考えたら、男の体型と女の体型というのは当たり前に違いまして、どんなに綺麗な顔をしていてもやっぱりこいつは男の骨格と体重をもってまして。
肺が圧迫されている。苦しいし、重いし。
押しのけようとしても持ち上がらないし。見上げた空は相変わらず曇天だし。
どうして私は透明人間じゃないんだろうとヤケになって思った。
「柚」
耳元で呼ばれた私の名前に、粗く息を吸い込んでやさぐれたように答えると、今度は急にぐるん、と視界が回った。
苦しいと思ったら目が回って。下かと思ったら今度は上か。
今まで上にいたはずのクラスメイトが、次の瞬間には私の下にいた。
ああこの男、本当に一体何をしにきたんだか?
私に用があるといった、その用とは一体何なんだか。
「今度は何思い出した」
「 は っ ? 」
クラスメイトの肩口にいつのまにか押し付けていた顔を持ち上げて相手の顔を見た。くちびるがふれそうな距離に顔がある。
でも心臓は全くドキドキしない。綺麗な顔なのに。
「今度は何があった?」
もう一度目の前の男が言う。
しばらく考えてからああ、と思い当たって、強張ったままの体からゆるゆると力を抜いた。
「何も。別に、ちょっと」
答えにならない答えは妙に細切れになって私の口から飛び出す。
下からの鋭い視線はずっとかわらない。揺らがない。
居心地悪くて上からどこうとしても、背中と腰にいつの間にか回された腕がそれを許してくれない。
「ただ、鏡、見て」
そう鏡だ。
私は鏡を見るのが大嫌いなのだ。自分の姿が、顔が映るから。大嫌い。
だから見ないようにしてるのに、今日はたまたま、鏡を。
見てしまった、のだ。
「相変わらず、ブサイクな、顔、だなって、思った、だけ」
鏡を見ると、自分の顔を見ると、心の奥底に打ち込まれた楔が疼く。
『ブサイク』という幼い少年の声が鐘のように頭に響く。
馬鹿だなぁと自分でも思うのだから他所様から見れば相当馬鹿に見えるに違いない。
ふぅ、とクラスメイトが息を吐く。
「またそれか」
「だから、何も、別にって」言ったんだよ一番最初に。
「お前馬鹿だな」その後にやっぱり、と続く。
「お生憎様。知ってます」どうせ私はブサイクで、可愛げも無くて、いいとこなんて一つもないですよ。
だから透明人間になってしまえばいいのに。
「っ、う、わっ」
そう思った直後に、急に頭の後ろに手を回されて、再び相手の肩口に顔を押し付けるハメになった。
ぎゅっと強い力で抱きしめられるのは、抱擁というよりは拘束に近い。
苦しい。
また圧迫される肺と胸とは別に、苦しいと思った。
楔が、疼く。
目の前の男は気休めも、慰めも言わない。ただ後頭部をゆっくりと数度撫でて、「馬鹿だ大馬鹿だ」と呟いた。
ああ馬鹿はあんただ大馬鹿野郎。
そう返してやりたいのに何故か声がうまく出ない。
結局、あんた何の用なの、よ。
それだけようやく呟けば、男は喉の奥で笑った後、「だからお前に用があったんだ」と答えにならない答えを返した。