幕間2「象牙の刃に入るヒビ」
ユーフィリアがいなくなってから、約二週間。
象牙の刃の拠点には、もう朝の活気はなかった。
本来なら、依頼の確認や装備の点検、次の行動計画についての声が飛び交う時間帯だ。
だが今は、広い作戦室に人影はまばらで、誰もが不機嫌そうに黙り込んでいる。
机の上には、書類の山。
未整理の依頼報告、精算待ちの報酬記録、期限を過ぎた物資申請書。
それらを前に、アデランは腕を組んだまま立ち尽くしていた。
「……まだ終わらないのか」
苛立ちを隠そうともしない声が飛ぶ。
書類に向かっていた一人のメンバーが、乱暴に羽根ペンを置いた。
「無理ですよ。これ、今日中に終わる量じゃありません」
「前は終わっていただろう」
「前は、です」
言い切るような口調だった。
「前はユーフィリアがいました。俺たちは、戦うだけでよかった」
別のメンバーも、堪えきれない様子で口を挟む。
「依頼の受諾だって、報酬の配分だって、全部あいつがまとめてた」
「物資が足りないなんて、最近まで一度もなかっただろ」
部屋の空気がじわじわと重くなる。
アデランは、苛立ちを押し殺すように息を吐いた。
「……だからといって、今さらどうしようもないだろう」
「どうしようもなくなってるのが問題なんです!」
強い声が飛ぶ。
「ギルドから、連絡が来てましたよ」
「……連絡?」
アデランが眉をひそめる。
「最近、書類の不備が多い、と。それから——」
言葉の続きとともに、一枚の書類が机の上に投げ出される。
「ギルド会費の滞納連絡も来ています」
「なに……?」
「急いで払いはしました。でも、繰り返されるようなら……最悪、ランク降格もあり得ると」
ざわり、と空気が揺れた。
Aランク。
それは象牙の刃が誇る称号であり、拠点や待遇、依頼内容すべてに直結する地位だ。
それが揺らぐ。
しかも、戦闘ではなく——事務処理の不備で。
「……馬鹿な」
アデランは低く呟いた。
「たかが会費だろう。そんなもの払ってしまえば——」
「たかがじゃない!」
今度は、誰も遠慮しなかった。
「金が回らない。依頼が滞る。信頼が落ちる。それで、俺たちはどうなる? 戦う前に潰れるだけだ!」
沈黙が落ちる。
「……俺は反対だったんだ。ユーフィリアの追放なんて」
ぽつりと、誰かが言った。
「……なんだと?」
アデランが低く呟く。
その時だった。
「……一つ、提案があります」
控えめな声が、部屋の隅から響いた。
ギルドからの連絡役として来ていた職員だ。
「最近、始まった制度なのですが……『事務員派遣制度』というものがありまして」
「……なんだい、それは」
「冒険者パーティー向けに、ギルド本部から専門の事務担当を派遣する制度です。依頼管理、精算、物資手配、ギルド対応まで一括で」
一同が思わず顔を上げる。
「そんなものが……?」
「まだ新しい制度なので、利用者は多くありません。ただ……」
職員は一拍置いてから続けた。
「条件次第では、かなり負担が軽減されるかと」
アデランは、その言葉を反芻する。
——専門の事務担当の派遣。
「……なんだ」
思わず、口から零れた。
「そんな便利なものがあるんじゃないか」
誰も、同意しなかった。
それでもアデランは、どこか安堵したように続ける。
「なら、話は早い。王都へ行こう」
「アデラン……?」
「ギルド本部で詳しい話を聞きに行く」
そう言って、彼は立ち上がった。
……誰も止めなかった。
止める言葉を、誰も持っていなかった。
象牙の刃の拠点に、再び静寂が落ちる。
積み上がった書類は、相変わらずそこにあった。
誰の手にも取られないまま。
それはまるで、もう戻らない時間そのもののようだった。




