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第十一話(前編):五歳で大人の事情に巻き込まれ始めた件

計算は、正確であるほど崩れた時が怖い。


五年間、誤差ゼロで積み上げてきた隠居プラン。

昨日の一瞬の判断が、

その土台を内側から軋ませている気がしてならなかった。


間違っていなかったはずだ。

あの場面で、あれ以外の選択肢はなかった。

それでも――胸の奥に残る不安は、

試験前夜のそれと、あまりにもよく似ている。


これは、

静かな朝と、温かいスープと、

逃げ場のない「大人の事情」に巻き込まれていく、

そんな一日の始まりの話。


カリンとの「レース」を終え、ようやくフェアリーキープの静寂に戻れると思った俺の淡い期待は、使い込まれた作業靴の足音によって粉砕された。


結局、一睡もできなかった。


ここにきて、五年間で初めて――俺の計算が、根底から狂い始めていた。

受験前のあの日のように。


怖かった。


(……クソ。計算ミスだ。あの一瞬、俺は何を浮かれていたんだ。昨日の自分を今すぐ叩き起こして殴ってやりたい。合格通知をこの手でシュレッダーにかけたようなもんだぞ)


「桃太郎、ご飯よ。降りておいで」


リミバァの、孫を慈しむような柔らかな声が響く。


……カリン。あいつ、『喋らない代わりに教える』なんて約束、ちゃんと守ってるか? もしバレてたら、全部終わりだ。隠居も平穏も、全部。


「おーい、桃太郎! 聞こえてるのかい!」


二度目の声は、低く、ドスのきいた響きに変わっていた。


……待てよ。いや、あれが最善だったはずだ。あの状況、あの瞬間、あの手札の中ではあれが正解だった。仕方がなかったんだ。……信じるしかない。カリンが、俺との約束を裏切らないって、信じるしか……。


「桃太郎!! 何やってるの、早くしないとスープ冷めるよ!!」


爆弾が破裂したかと思った。鼓膜を直接ぶち破るような衝撃波に、脳が揺れる。


「はーーい! 今行く!!」


弾けるように飛び起き、階段を駆け下りる。


食卓に着くやいなや、リミバァの鋭い眼光が俺を捉えた。


「……どうしたんだい、その顔。目の下に立派なクマを作って」


「……ちょっと、考え事してて」


俺がそう濁すと、リミバァが口角をわずかに上げ、ニヤリと笑った。


それは慈愛とも、すべてを見透かした嘲笑ともとれる、なんとも形容しがたい表情だった。


(おい、なんだそのスカした顔は。……マズい、怪しまれてるのか? 計算が漏れたか?)


心臓の鼓動が早まるのを悟られないよう、俺は目の前に置かれたスープに手を伸ばした。


湯気とともに、この世界特有の少し土の香りが混じった、甘い香りが鼻をくすぐる。


(……これだ。これで行くしかない)


俺はスプーンを口に運び、一口、その琥珀色の液体を流し込んだ。


……美味い。


具材は、この村の裏山でしか採れない『ポコの実』だ。見た目は芋のようだが、火を通すとトウモロコシのような甘みが溢れ出し、喉を通る瞬間に独特の温もりが広がる、この世界の隠れた名産品。


「美味しい――ッ! やっぱりリミバァのスープは世界一だね!」


満面の笑み。濁りのない瞳。五歳児という皮を被った、一世一代の演技。


すると、さっきまでの鋭い眼光はどこへやら、リミバァは「おやまぁ」と目尻を下げ、相好を崩した。


「……もう、お上手だねぇ。そんなに美味しいのかい、おかわりもあるからね」


鼻歌でも歌い出しそうな足取りでキッチンへ戻っていく背中を見送りながら、俺は心の中で大きくガッツポーズを作った。


(ふぅ……。疑われた時は、これが一番だ。五年経って、ようやくリミバァの『取説』がわかってきた。計算と努力は裏切らないな)


リミバァは上機嫌で鍋を回しながら、思い出したようにこちらを振り返った。


「もうすぐカリン親子が来るよ! 早くしないと」


そう言って、リミバァは桃太郎を急かした。


(ここグリモワールドで生き抜く為には、魔法無しでは生きづらい。キーアイテムの『きびの実』を……)


――バァーン!!


威勢の良い音を立てて、家の重い木扉が勢いよく開け放たれた。


「ももっち! リミおばあちゃん、おはよう!」


そこに立っていたのは、春のうららかな陽気をそのまま体現したような、満天の笑顔を浮かべたカリンだった。


(おいおいお嬢さん、今日はいつもにまして目がキラキラじゃないか。……ところで、同盟は忘れてないのかね?)


「おはようカリン!」


「おはようももっち!」


カリンは俺に勢いよくハイタッチをかますと、そのままの勢いでリミバァに抱きついた。リミバァは、さっきまでの鋭い眼光が嘘のような、慈愛に満ちた目でその小さな体を受け止めている。


(……梟人と違い、人間は七歳までに魔法が発現しなければ、一生使えない。だからこの街の大人は、時折あんな風に、呪いのような慈愛の目で子供を見るんだ)


「カリン、桃太郎くん。待たせたな」


現れたのは、カリンの父親だ。グリモワールドのあらゆる配管、裏路地、魔導回路のバイパスまでを把握する「便利屋ギルド」のベテランらしい、道具袋を腰に下げたラフな姿だ。


「リミさん、今日も娘をありがとう。……さあ二人とも、リヤカーに乗れ。今日は一件、立ち寄らなきゃならない現場があるんだ」


俺は本能的に察した。街の隅々まで知っている男が向かう「現場」。これは確実に、一筋縄ではいかない案件だ。


「桃太郎、お前も連れて行っておくれ。……お前もしっかり、カリンを守っておやりよ」


リミバァの声が、無慈悲に俺を指名した。


本から目を上げないその一言には、便利屋の助手を命じるような、重い「呪い」のような期待が込められていた。


結局、俺はカリンと一緒にリヤカーの荷台に放り込まれた。


お父さんの足取りは、街の地図が脳内に完璧に入っている者のそれだ。デコボコ道でも最も振動の少ないラインを正確に選び、リヤカーを引いていく。


「わーい! パパ、速い速い!」


無邪気にはしゃぐカリンの横で、俺は必死に舌を噛まないよう奥歯を噛み締めていた。


だが、前を行くお父さんの背中は、いつもの「街の何でも屋」としての余裕がなく、どこか痛々しいほどに強張っていた。


「……カリン。今年こそは大丈夫だ。俺がギルドの仲間と、この一帯の地脈をくまなく点検したんだ。不備は一つもなかった。次は、ちゃんと実るはずだ」


自分に言い聞かせるようなその声は、便利屋としての報告ではなく、一人の親としての、祈るような独り言だった。


(つづく…)


子供の世界は、思っているほど単純じゃない。

そして、大人の世界は、

思っている以上に祈りと後悔でできている。


優しい声。

慈愛の視線。

何気ない「ついで」の一言。


そのどれもが、

五歳児には少し重すぎる期待を含んでいる。


俺はまだ、何もしていない。

魔法も使っていない。

それでも、リヤカーに揺られながら、

確実に「面倒な現場」へと近づいている。


隠居生活とは、

騒がれないことではなく、

巻き込まれないことだ。


――どうやら、前者は守れても、

後者はもう無理らしい。


(つづく)


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