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第九話(後編)受付嬢を脅したつもりが、役者が揃っていただけだった件

平穏は、計算の上に成り立っている。


人の善意。

有能さ。

そして、予定通りに進むという思い込み。


そのどれか一つが狂った瞬間、

積み上げた数式は、音もなく崩れ去る。


これは、

赤ん坊の姿をした一人の男が、

「静寂の聖域」を守るために足掻いた――

その始まりの記録である。


※赤ん坊は泣きません。

※平穏はだいたい崩れます。

工事現場から遠く離れた自宅まで、揺れるカゴの中で俺は己の慢心を呪っていた。


(……計算が合わねぇ。あの女のあの一言で、俺の構築した『平穏』の数式がすべて崩壊してやがる……!)


脂汗を流す俺の絶望を、家の前で待ち構えていた身内の声が粉砕した。


「――おい! 聞いておくれ、お前さんたち!」


現れたリミバァは、見たこともないほど相好を崩していた。


(……あんなに喜んでいる。バァさん初めて見た! おいおいやばい!)


「ギルドが快く応じてくれたよ! 未曾有の大災害だからこそ、お互い手を取り合おうってね。費用の半分を向こうが持つと二つ返事さ!」


「本当に良かったですね、司書長。私も、お手伝いできて光栄です」


カゴを抱えるお姉さんが、鈴を転がす声で笑う。


「ああ。橋が直るまでルーンメモリアの会議室で、この子たちの面倒を見てもらうからね」


「はい! 喜んで!」


(……終わった。俺の聖域(職場)が、この正体不明の女に侵食された。明日からは、あの女のいる会議室へ通わなきゃならねぇのか……!!)



翌朝、俺を乗せたカゴが運び込まれたのは、ルーンメモリアの中でも一際巨大な会議室だった。だが、そこはもはや俺が知る「静寂の聖域」ではない。


「――さて。皆さん、始めてちょうだい」


リミバァの、低く、透き通った声が響いた。それだけで、300人を超える**梟人ふくろくびと**たちの動きがピタリと止まり、次の瞬間、精密な機械のように一斉に稼働し始めた。


「この会議室にある本をすべて、書庫へ。……一行の乱れも許しませんよ」


「ハイさぁ!」「ハイよ!」「次、お願い!」「ハイさぁ!」「ハイよ!」


廊下から書庫へと続く、300人の梟人による「知の回廊」。


小気味よい拍子と共に、国宝級の魔導書が、生き物のような躍動感で手渡されていく。


「――次、重いゾ! 気をつけて受け取れよ!」


(……プロの仕事だ。渡す側は角度を殺し、受け取る側は角を殺す。本への敬意と仲間への優しさが、あの短い一言に詰まってやがる……!)


一際分厚い大著が、吸い込まれるように隣の手へと渡っていく。その極上の連携を、桃太郎はカゴの中から、魂を削られる思いで見つめていた。


(なるほどね……ここじゃ本が神で、俺たちは参拝客だ)


(マジか、スケール半端ねぇ……! あれは伝説の魔導書じゃねぇか! 待て、行くな! 俺に見せてくれーー!!)


必死にカゴから身を乗り出そうとする桃太郎。その時、カゴを抱えるお姉さんが、周囲の誰にも聞こえない、針のように鋭い囁きで鼓膜を刺した。


「――あの日の『魔法』、司書長にバラされたくないわよね?」


(……っ!! こいつ、バラすつもりか! 司書長の前で『凄く賢いお孫さんですね』なんて微笑んでみろ、俺の人生設計は終了だ……。俺を『天才児』に仕立てて、自分の出世の道具に使う気か……!!)


「さあ、桃太郎くん。お姉さんのために、しっかり『お利口』にしててね?」


お姉さんの指先が頬を冷たく撫でる。桃太郎は、悪魔の切り札を握られた運命に戦慄していた。


やがてリミバァが席を外すと、お姉さんは震える手で羽ペンを握った。人手不足を補うための、推薦状。彼女にとっての、人生を賭けた一世一代の勝負所だ。


「……なんて書けば。私の平凡な言葉で、あのリミバァ様を納得させられるかしら……」


(……平凡、ね。アンタの書こうとしてる挨拶文じゃ、不採用通知が届くだけだぜ)


お姉さんが白紙にペンを落とそうとした瞬間、俺は極小の魔力――**『微細引力』**を起動した。


(お姉さん、主導権は俺がもらうぞ。……俺の計算を、アンタの字で転写してやる!)


お姉さんの意思とは無関係に、ペン先が滑らかに羊皮紙を走る。


(……そうだ。驚くな、書き続けろ。アンタが『天才職員』になれば、俺の隠れ蓑(聖域)は守られる。これが俺の生存戦略だ!)


戻ってきたリミバァが、その羊皮紙を見て目を見開いた。


「……素晴らしいね。これほどの視点を持つ人材を、私は見逃していたようだ。橋が直った後も、正式に私を支えておくれ」


「……っ、ありがとうございます!!」


お姉さんは歓喜し、カゴを抱きしめる。だが、その瞳は鋭く俺を射抜いていた。


(……今の、私の字にそっくりだけど中身が異常だわ。君の仕業ね。……さとったわよ)


桃太郎は、無垢な赤ん坊のプロフェッショナル・スマイルで静かなメッセージを送る。


(……気づいたか。俺はいつでも、アンタの字で『アンタが書けない文書』をバラ撒ける。裏切れば、再び無かったことにしてやるよ。わかったか、共犯者さん?)


二人の間で、音のしない「脅迫」と「共犯」の契約が結ばれた。


それを見ていたリミバァが、不意に振り返り、満足げに目を細める。


「――ふふ。これで、ようやく役者が揃ったようだね」


その言葉に、桃太郎は心臓が跳ねた。


すると、さっきまで歓喜に震えていたはずの「名前のない受付嬢」が、スッと表情を消した。彼女は慣れた手つきで肩をすくめ、リミバァにだけ聞こえるような、計算済みの笑みを浮かべて付け足した。


「……当然です、司書長。最初から、こうなる予定でしたから」


(……は?)


お姉さんのその態度は、野心に燃える平職員のそれではない。まるで、すべてを知り尽くした「運営側」の顔だ。


(待て。お姉さんは俺を利用してるんじゃなかったのか? リミバァは偶然、有能な人材を見つけたのか? ……役者が揃った? 予定通り?)


リミバァと、不敵に笑うお姉さん。


二人の巨大な影に包まれながら、桃太郎は猛烈な戦慄を覚える

甘い香りが、どこか懐かしい気配に似ていた。

まだ言葉は分からないけれど、胸の奥がほんのり温かくなる。

赤ちゃんのももっちは、それが誰なのか知らなかった。

けれど、いつか大事な誰かだと気づく日が来ることだけは、世界のどこかで決まっていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!


本作は

「赤ん坊なのに思考だけ異常に大人」

「職場=聖域という価値観」

「有能そうに見える人ほど裏がありそう」


この三点を軸に書いています。


主人公は基本的に平穏主義ですが、

平穏を守るためなら平気で火種を量産するタイプです。

なお、本人はまだ自分が一番まともだと思っています。


司書長リミバァと受付嬢(お姉さん)は、

どちらが味方でどちらが敵か――

あるいは、その区別自体が意味を持つのか。


更新は不定期ですが、

「知略」「勘違い」「職場侵食」「赤ん坊無双(頭脳)」

が好きな方には刺さるよう、続けていく予定です。


ブックマーク・評価・感想、とても励みになります。

それでは、次話もお付き合いいただければ幸いです!

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