第2話 あの日、運命に出逢った
――あの日、運命に出逢った。
麗華が母に連れられて鳳月邸に来たのは、わずか十一歳のとき。
彼女の母は、現在の麗華の義父である鳳月グループの社長の秘書をしている。
あとから聞いた話では、なんでも義父の前妻は夫の財産を食いつぶしてホストクラブで豪遊するような奔放な人で、最終的に愛想を尽かした夫に離婚を言い渡されたとか。
そして、再婚した相手が麗華の母であった。
鳳月邸に招かれた麗華は、母とともに新しい父になる人に挨拶に伺う。
母は秘書として社長と常に一緒に行動しているだけに、慣れた様子であったが、麗華としては、これまでの生活で関わることのないようなお屋敷にいきなり連れてこられて困惑していた。
下手に動くと、この屋敷のなにかを壊してしまいそうなほど、高価だろうと思われる品物が所狭しと並んでいる。
『弁償』という言葉が頭をよぎり、歩く身体がガチガチになるほど緊張していた。歩みを進めるたびに、毛の長い絨毯に足が沈む。
やがて、義父の書斎に案内され、中に入ると、鳳月グループの社長と思しき男と――麗華と同い年くらいの女の子がいた。
湖のように澄んだ目。烏の濡れ羽色のつややかな髪は長く伸ばされ、編み込みが施されている。透き通るような白い肌。唇は咲き始めたばかりの薔薇のよう。服装はさすが良家のお嬢様と眼を見張るような高そうで、でも上品なワンピースだ。
深窓の令嬢、といった風貌の少女の目が、麗華を見つめていた。
「小夜子、お前の妹になる子だよ。ご挨拶しなさい」
小夜子と呼ばれた少女は、父親に声をかけられ、深々とお辞儀をする。
「鳳月小夜子でございます。あなたのお名前を、聞かせていただけますか?」
そのあとは緊張しすぎてあまり記憶がない。今でもあのときのことを思い返すと、心臓がどくどくと鼓動を打つのだ。ただ、小夜子は麗華に優しく接してくれて、麗華も小夜子によく懐いた。本物の姉妹だって、ここまで仲良くはないだろうと麗華は自負している。
もちろん、現在に至るまでに障害がなかったわけではない。
たとえば、麗華は元庶民であり、上流階級のマナーなど何も身についていなかった。
義父はマナーのできていない麗華を社交の場に出したがらず、小夜子だけを連れて夜会に行っていた。
それが羨ましかった麗華は、恐れ多くも「自分も行きたい」と駄々をこね、無理を言って参加させてもらったのだ。
結果は――社交の場でマナー違反の連続、たいへん失礼なことをしてしまい、相手の不興を買った。
「娘がたいへんご無礼を……平にご容赦ください」
義父は平謝りをして、それ以降は麗華を連れて行こうとはしなかった。
彼女も、無理に行きたいとは思わない。マナーというのは堅苦しいもので、あんな息が詰まるような場所は二度とごめんだと思った。
落ち込む麗華を慰めてくれたのも、小夜子である。
「麗ちゃん、最初は誰もできなくて当たり前よ。まずは、家の中でできるマナーの勉強をしましょう」
しかし、麗華はわがままを言って小夜子を困らせた。
「もうマナーなんていらないもん。わたし、どうせお嬢様じゃないもん。スプーンやフォークの使い方から何から、いちいち文句ばっかり言われるの、イヤ!」
「麗ちゃん」
小夜子は優しく、しかし少し強い口調で、麗華の両肩に手を置く。
「マナーは、相手を敬うために必要なものなの」
「うやまう?」
「例えば、麗ちゃんにも仲の良いお友達はいるでしょう? その子に失礼なことをして、怒らせたり傷つけたりはしたくないと思うの」
麗華が「うん」とうなずくのを見てから、小夜子は言葉を続けた。
「マナーっていうのはね、お嬢様かどうかは関係ないの。相手を尊重していることを示すために、礼儀を払うのは、お嬢様でもそうでなくても違いはないと思わない?」
「そんちょう」とか「れいぎ」とか、ひとつ歳上なだけなのに、小夜子はいろんな難しい言葉を知っていた。そんな彼女のようになりたいと、麗華は思ったのだ。
「小夜ちゃん。わたしに、マナー、教えてくれる?」
「もちろん!」
小夜子は嬉しそうに笑っていた。
実際、彼女はマナーを教えるのが上手だった。
小夜子は麗華がどんなに失敗しても苛立ったり怒鳴ったりしない。辛抱強く、粘り強く何度でも指導してくれる。
麗華はマナーを身に着けて、義父の前で披露し、とても褒められた。
義姉妹は手を取り合って、成功を喜んだものである。
小夜子はマナーのみならず、麗華の勉強もよく見てくれた。
家庭教師が必要ないほど、麗華は小夜子から知識と知恵を与えられ、現在はクラスのトップを独走する優等生である。
麗華は、いつからか義姉への恋心を自覚していた。
庶民である自分に分け隔てなく優しく接してくれる小夜子に、どうしようもなく惹かれている。
しかし、義理とはいえ姉妹であること、小夜子に拒絶されたらと懸念すると、どうしてもあと一歩を踏み出すことができず、その想いを胸に秘めていた。
――お義姉様も、今頃は教室でわたくしと同じように授業を受けているのかしら。
高校に進学して、麗華は十六歳、小夜子は十七歳になった。
ひとつ歳が違うために、同じクラスになることは叶わないが、麗華はいつでも小夜子のことを考えている。
授業中も、窓の外を流れていく雲を眺めながら、義姉の名前をずっと心のなかで呟いていた。
小夜子。かつては「小夜ちゃん」と呼んでいた。なんて美しい名前なんだろう……。
「――鳳月。どこを見ている。俺の授業をよそ見とは、いい度胸だな」
数学の教師が苦々しい顔で麗華をにらんでいる。
「優等生はずいぶん余裕があるじゃないか。問三の答えを言ってみろ」
「-10+3i」
「…………正解……」
教師はギリギリと悔しそうに歯ぎしりをしていた。他のクラスメイトはギスギスした教師のストレス解消に八つ当たりをされて、いい迷惑だと内心思っている。
麗華はそれらを道端の石ころのように歯牙にもかけず、窓の外をぼうっと見ていた。
――お義姉様、早く会いたいなあ。




