フラスコの中の人魚
誰も見向きもしない理科室のとある戸棚のなかには、フラスコに棲む人魚がいる。
ある日、少年は偶然、フラスコを見つけた。
「何をしているの?」
少年は、人魚に話しかけた。
人魚はゆっくりまばたきし、久しぶりのお客さんと、少し話をすることにした。
「君は人魚?」
「ええ、そうよ」
「どうしてここにいるの?」
「あなたのお友達の誰かが、連れてきたのよ」
「フラスコの中は楽しいの?」
「それなりに。けれど故郷の海が恋しいわ」
「もともとは海にいたんだね」
「ええ」
「フラスコの中から外は見えないでしょ?僕が外に連れて行ってあげるよ」
「怖いわ、何が起こるかわからないもの」
「何を食べて生きているの?僕の給食のパンをあげるよ」
「人魚はパンを食べられないの」
「フラスコの中の水を、塩水に変えてあげよう。海に帰ったように感じるだろうから」
「私、今のままでも十分なの」
「かわいそうに。僕がこっそり、池か川に逃してあげよう」
「人魚は海と、このフラスコ以外では生きてゆけないの」
「かわいそうに。こんなに小さなフラスコの中でしか生きられないなんて」
「フラスコの中は海とは違うけど、私は今も幸せよ」
「かわいそうに。かわいそうに。」
「私は食べかけのパンも、塩水も、池や川もいらないわ。」
「かわいそうに。かわいそうに。」
「あなたも、あなたのフラスコの中で生きているのね。」
「かわいそうに。かわいそうに。」
「海で生きていても、フラスコの中で生きていても、私はとても幸せなのよ」
少年は、ランドセルから干からびたパンを取り出した。
「美味しいものでお腹が満たされると幸せだね」
そう言いながら、フラスコの口にパンを押し込む。
人魚は何かを言っていたけど、少年はパンを細かくちぎってフラスコにつめこむ。
やがて人魚の口にパンが流れ込み、人魚はひどく苦しんだ。
次に、少年は理科室にあった塩をひとつまみ、フラスコの中へ落とした。
「故郷に帰れて幸せだね」
人魚はもがき苦しんで、やがてピクリとも動かなくなった。
「自由になったら、きっともっと幸せだ」
そうつぶやくと、少年はフラスコを持って、理科室の裏口から外へ出た。
裏庭の濁りきった池に、少年はフラスコをそっと沈めた。
パンのかけらが浮き、人魚の長い髪がぐにゃりと水面に広がった。
ぷかん、と浮いた人魚は、二度と動かなかった。
少年は、それをしばらく見つめていた。そして、にこりと笑った。
「よかった。これで幸せになれたね」
「家に帰って宿題をやらなきゃ」
魚も棲まない濁った裏庭の池には、古いフラスコが浮かんでいた。