第3話 公衆の面前での対立③
夜会が終わりに近づくと、あれほど華やかだった大広間は一気に冷めきった空気に包まれていた。あちこちにシャンパンのグラスや食べ残しが転がり、豪勢に飾られていたテーブルもすっかり片付けを始めている。まるで祭りのあと、という言葉がぴったりだろう。
俺は壁際に佇んだまま、妙な達成感と疲労感に襲われていた。先ほどまでリシャール殿下や取り巻きたちとやり合っていた緊張が、少しずつ解け始めているのだろう。心臓の鼓動はまだ速いが、まるで一仕事終えたように肩の力が抜けている。
「……なんだか、いろいろやってしまったな」
思わずため息が漏れる。俺のような下級貴族が、王太子や公爵令嬢を巻き込んだ大騒ぎの中心に立ったのだから、そりゃあ周囲からすれば異様な光景だろう。それでも、後悔はしていない。彼女――カトレアをあのまま晒し者にするのはどうしても見過ごせなかったし、正しくないと思ったことに口を噤むのは、俺の性分じゃない。
「……でも、これからどうなるんだろう」
自然とそんな疑問が湧いてくる。辺りを見回せば、貴族たちの鋭い視線や囁きが飛んでくるのを感じた。実際、いくつか耳に入ってくる。
「さっきの男、アレンとか言った? 王太子殿下に楯突くなんて、正気じゃないわ」
「噂によれば、辺境の男爵らしいけど……あれはかなり危険よ。下手したら領地ごと潰されるかも」
「ほら、関わると面倒だから近寄らないほうがいいわ。殿下の怒りを買った相手なんかと仲良くしたら、こっちまで巻き添えだもの」
そんな声が耳に刺さる。露骨に避けられているのがわかるのは、正直堪える。俺の近くを通りかかろうとした貴族も、俺を見た瞬間に目を逸らして、急ぎ足で通り過ぎていく。
「……浮いてるな、完全に」
苦笑がこぼれる。王都での立場が危ういなんて、そんな言葉では足りないかもしれない。俺が勝手に殿下に逆らった結果、男爵家や領地への影響は計り知れない。だけど、ここで「しまった」と後悔するよりも、「俺は正しいと思う行動をしたんだ」と自分に言い聞かせたい。自分の信念に嘘はつきたくないから。
「お、お客様……こちらをお片付けいたしますね」
片付け中の召使いが、申し訳なさそうに俺へ声をかける。思わず場所を譲ろうと一歩横に移動するが、その瞬間、召使いが何か言いたげに口を動かした。
「先ほどは、びっくりしました。すみません、私のような者が口を挟むことではないのですが……」
「ああ、ううん。気にしないでくれ。俺だって勢いでやってしまったようなものだ」
召使いはそれ以上何も言わず、テーブルの上の食器を片付けていく。どうやら俺の行動に驚いたのは、貴族だけじゃないらしい。そりゃ当然だ。あれだけの大騒ぎ、誰もが注目するに決まっている。
(……ただ、これで完全に王都の上流社会とは敵対関係かもしれないな)
正義感とか、庶民派の気持ちとか、そんなきれいごとを言っている場合じゃない。王太子リシャール殿下の機嫌を損ねるということは、すなわち王家に目を付けられるということだ。実家の男爵領だって安泰ではいられない。家臣や領民に迷惑をかける危険性も高い。
「はあ……」
思わず長いため息をつく。達成感はあるけど、その先に待っているのは厳しい道だろう。周囲の貴族はまだちらほらと残っているが、皆、俺を避けるように散っていく。こうなると、王都で政治的な助けを得るのも難しそうだ。
(これから先、どうなる……?)
頭を抱えたくなるような不安がこみ上げる。けれど、「自分がしたことを後悔しているか?」と問いかければ、答えは「否」だ。少なくとも、黙っていたら寝覚めが悪かったに違いない。
「……その覚悟で動いたんだ、俺は」
自分自身に言い聞かせるように呟いていると、遠くで片付けをしている貴族のモブが、こちらをちらりと見た。言葉は聞こえないが、「大丈夫か、あいつ」「いや、もう手遅れだろう」なんて風に会話しているのがうっすら伝わってくる。自然と彼らも俺から視線をそらし、あたかも“関わりたくない”といった態度を取る。
そんな夜会の“残骸”が広がる中、俺は心身ともに疲労がピークに達していた。頭の中で回想されるのは、あの緊迫した言い争いの場面だ。リシャール殿下の冷たい目、取り巻きたちの嘲笑、そして――誰よりも傷つきながらも凛としていたカトレアの横顔。
「……カトレア様、どうしているんだろう」
気づけば、彼女のことを考えていた。夜会が終わる前にどこかへ姿を消したらしいが、その後どうなったのか、誰も話してくれない。そもそも俺なんかに、彼女の消息を尋ねる権利もないだろう。
けれど、不思議と後悔はない。王太子と対立したからといって、あの場で彼女を見捨てるのは違うと感じた。もしこれで貴族社会全体が俺を敵視するなら、それだけのこと。覚悟は持ったつもりだ。
「これから、どう動くべきか……」
そんな考えをめぐらせつつ、大広間を見渡すと、そろそろ片付けが終わりに近づいているようだった。完全に取り残されたような自分の姿に気づいて、軽い孤独感が押し寄せてくる。だが、“正しいと思ったから行動した”――その気持ちが俺を支えてくれていた。
「……さて、こんなところにいても仕方ないし、宿に戻るか」
重い足取りで扉のほうへ向かう。王都に来て早々、こんな大騒動を引き起こすことになるなんて想像もしなかったが、やるだけやったのだ。あとは、もうなるようにしかならない。
廊下を歩きながら、頭の中でいろいろな思いが交錯する。領地のこと、王都での暮らし、そしてカトレアのこと――どれも一筋縄ではいかない課題ばかりだ。だけど、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「俺が信じた行動を取ったまでだ。……後は、運に任せるしかないかな」
そう自分に言い聞かせると、僅かながら肩の力が抜け、息が楽になる。明日から俺はどう動くのか、どんな困難が降りかかるのか、全く見通しが立たない。しかし、その不安と同時に何かしらの決意が胸に芽生えているのを感じるのも事実だ。
夜会の名残を背に、扉を押し開けると、城内の廊下にも既に人影はまばらになっていた。残響のように響く足音が妙に大きく聞こえる。
「……これからどうなるんだ、俺。正直、怖いけど……やるしかない、か」
夜風が吹き込む先に広がる王都の夜景を眺めながら、俺は静かに呟いた。この先に待つ試練がどれほど厳しかろうと、もう後戻りはできない。頭の片隅では、カトレアの瞳がわずかに潤んでいた光景が焼き付いていて、それが不思議な勇気を与えてくれる。
そんな淡い光に支えられながら、俺は夜会の扉を後にする。どうか、無事であればいい――そう祈りつつ、足を進めた先に待つのは、まだ誰にも見えない未来だ。