第29話 選ばれた道③
カトレアのかすかな息遣いが、夜の空気を震わせる。俺の腕の中で彼女の体は限界を迎えつつあるように感じられた。月の光が細い帯のように森の木立の隙間を縫い、俺たちを照らしている。息を飲むほど幻想的なのに、その美しさがなぜかやけに冷たく感じる。まるで、もう戻れない道だと告げているかのようだった。
「……カトレア、もう大丈夫だよ。怖くないから。俺たち、一緒にいるんだから」
言いながら自分が震えているのがわかる。短剣を握った手も汗ばんで、視界の端では彼女が弱々しく微笑んでいた。いつもより色白い頬に血の気がなく、半ば目を閉じかけている。
「アレン……ありがとう。最期まで、あなたがそばにいてくれた。それだけで、わたし……」
カトレアの声が力なく途切れる。彼女の肌を通して感じる温もりが、先ほどまでよりも急速に消えかけているのを感じ、胸が苦しい。けれどもう戻れない。兵士たちの足音がまた近づいてきているのがわかる。犬の鳴き声もはっきり聞こえる。ここまでだ——何度も走り回ったけれど、結局逃げ場なんてなかったんだ。
冷たい刃の感触が指先を刺し、思わず息をのむ。夜露で滑りそうになる手をぐっと力んで固定する。カトレアを抱き寄せた状態で、さらに短剣をしっかり握るのは難しいが、それでもやるしかない。
「怖い……?」
「少しだけね。でも、あなたと一緒なら平気。あなたの手の感触も、声も、ずっと覚えておきたい」
優しく笑うカトレアの瞳は、もう涙で潤んでいる。俺は震える息を吐きながら、彼女の髪をゆっくり撫でた。兵士たちが一気に駆け寄ってくる足音が増し、犬が吠え立てる声が森にこだまする。
「……ありがとう、カトレア。君と出会えて良かった。これが最期だとしても、俺はそれだけで……」
「わたしも。あなたがいたから、何もかも失っても最後の希望だけは持ててた」
その言葉に、どうしようもないほど胸が熱くなり、目が霞む。悔しさと愛しさが入り混じり、涙がこぼれ落ちそうになるのをこらえる。しかし結局、こらえきれずに大粒の滴が頬を伝った。カトレアもまた、静かに泣きながら笑っている。
「もう……時間がない。あいつら、すぐそこまで来てる」
「……うん。じゃあ……いこうか」
「うん、一緒に……最期の一瞬まで」
カトレアはわずかに頷き、俺の胸に額を押しつけた。寒い夜の森の風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。その様子があまりにも儚くて、胸を抉られる感覚に息が詰まる。俺は彼女の肩を包み込むように抱き、そっと唇を合わせた。互いの涙が混じり合うような、深く切ない口づけ。
「……大好きだよ。次の世界でも、また出会おう。今度こそ普通の生活をしような」
「ええ……あなたを待ってる。必ず見つけて。わたし、あなたのこと絶対わかるから」
声が震え、そして唇が触れ合ったまま短剣の刃が反射する月明かりに、二人の影を映す。兵士が「こっちだ!」と叫ぶ声が、もうすぐ近くまで迫っている。犬が狂ったように吠え、こちらに走り込んでくるのが聴覚を通して伝わる。悲しいかな、もうここまでだ。
「ごめん……何も救えずに、君をこんな道に巻き込んでしまった」
「違うの。あなたがいたからわたしは救われてた。最期くらいは、あなたの腕の中で逝かせて……」
「……ああ、わかった」
我慢しようとしても嗚咽がこみ上げてくる。短剣の冷たい感触がさらに手元へと伝わり、カトレアの身体が徐々に自ら力を抜いていくのがわかった。彼女の首筋に唇を寄せると、まだ僅かに血の通う温度が感じられる。捨てがたい温もりだった。
「カトレア、ありがとう。ほんとに……君と生きられた時間は、短くても最高に輝いてたよ」
「わたしも、あなたと過ごせて幸せだった。殿下に蹂躙されていたら、こんな愛を知ることもなかったわ……」
兵士の足音がさらに近づき、今にも木立を抜けてこちらに飛び込んでくる気配がある。焦りと恐怖が頂点に達するが、同時に「このまま殿下の手に堕ちるよりは……」という決意が固まる。お互いがもう逃げ場がないのはわかりきっている。それなら最後まで共に逝こう。
「……いいか、行くぞ……」
意を決して短剣の柄を握りなおす。カトレアは目を閉じ、うっすらと涙をためた頬に微笑が浮かぶ。俺はその笑顔を見て、一層切なくなるが、もう止められない。限界はとうに超えたのだ。
「わかった。お願い、あなたの手で終わらせて……」
「……うん。君のこと、ずっと愛してる。死んでも、絶対に忘れない」
「わたしも……アレン……大好きよ……」
一瞬の沈黙。周囲の喧騒が遠くで響く中、俺たちは重なり合うように身体を寄せ合い、そのまま静かに短剣の刃を受け入れる。痛みが走ったのか、カトレアが小さく身を震わせるが、悲鳴は上げない。代わりに俺の腕の中で徐々に力を失っていく感覚がはっきりと伝わり、胸がえぐられるような切なさで満たされる。
「……カトレア……」
震える声で名を呼びかけるが、彼女はうっすらと微笑んだまま弱弱しく息を吐く。俺も後を追うように自分の胸元へ刃を差し込む。想像以上の痛みが走り、口から小さく苦しげな声が漏れるが、同時にカトレアへの愛おしさがすべての苦痛を打ち消そうとする。互いに倒れ込むように、地面へと落ちていくのがスローモーションのように感じられた。
「……ああ……カトレア……君を……救えなかった……ごめん……」
「ううん……わたしこそ……あなたと……こうして……最期まで……」
呼吸が乱れながらも、小さな言葉を交わす。意識が遠ざかり、視界がぼやけ始める。兵士の荒い足音がもうすぐそこに迫り、「見つけたぞ!」という叫び声が森を貫いて響いた。けれど、その声は不思議なくらい遠く感じる。二人の時間が静かに止まっていくように——そんな感覚があった。
「……カトレア……俺たちは……一緒だよな……?」
唇から血の味が広がって、言葉もままならなくなる。彼女の返事は聞き取れないほど弱々しく、微かな微笑と涙の痕だけが伝わってきた。それでも感じる、最後の温度。俺はそのまま彼女をしっかり抱きしめ、目を閉じる。
兵士たちの荒々しい声がいくつも重なり合い、犬が猛り狂うように吠えているのが聞こえた。複数の足音が近づき、驚きと戸惑いの叫びが上がる。「倒れてるぞ……!」という言葉が耳をかすめるが、もはや動く力はなかった。
「血が……ひどいな……!」「くそ、間に合わなかったか……」
誰かがそう叫んでいる気がするけれど、意識がだんだん遠のいていく。カトレアの微かな吐息も、もはや感じられなくなっていた。目を開けたくても、もうまぶたが重すぎて上がらない。けれど、不思議と恐怖はなかった。彼女が腕の中にいるのが、しっかりと伝わっているのだから。
「……ありがとう、カトレア……」
最後の言葉を呟いたつもりだったが、それさえ声になったのかどうかも定かではない。すべての音が溶けて遠ざかり、月光がまだ美しく森を照らしているのだけ感じる。そこにカトレアのやわらかい髪の感触があって——それで十分だった。
そして、すべてが暗く沈む。意識が薄れ、静寂が夜を覆う。周囲には兵士の叫びや犬の唸りがあるはずなのに、俺の耳にはもう届かない。カトレアと二人きりの世界へ落ちていくように、穏やかな闇が心を包み込んだ。
——どれほどの時間が経ったのか。兵士の誰かが二人の身体に駆け寄って確認する足音がしたが、その足音の響きさえ遠い。結局、そこには安らかな寝顔をした二人だけが残っていたという。
王太子の包囲網を抜けられず、俺たちは血に染まった大地で倒れている。けれど、その瞬間だけは苦しみから解き放たれたように、カトレアと寄り添っていた——そんな静かな夜明けのシーンが、森の闇に溶け込んでいた。




