第29話 選ばれた道②
夜の森は冷え切った空気と微かな風の音だけが支配していた。遠くで兵士たちの怒声や犬の吠え声がわずかに聞こえるものの、いまこの場所だけは瞬間的に静寂が訪れている。俺はカトレアの肩をそっと引き寄せ、彼女の瞳を見つめた。彼女も小さく息を詰めて、涙を浮かべたまま微笑み返してくる。
「……カトレア、こんな形になるなんて、本当にごめん。おまえを守りたいって言いながら、どんな未来も用意できなかった」
自分の声がやけに震えて聞こえ、情けない気持ちで胸が苦しくなる。でも、それでも最後まで、カトレアに向き合っていたい。彼女が首を振って、潤んだ瞳を伏せる。
「違うわ。わたし、あなたがいてくれただけで幸せだったの。守れなくてごめんなんて言わないで……あなたが支えになってくれたから、ここまで生き延びられたんだから」
「……ありがとう。けど、もし俺がもっと力を持っていたら……殿下に逆らっても守れるだけの権力があれば、こんな結末には……」
「ううん、それはもう考えても仕方ないわ。あなたが必死で戦ってくれたのは知ってるし、わたしにとってはそれが全てだったの」
言葉を交わすたび、視線が絡むたびに、どうしようもない切なさが込み上げる。これまで逃亡の日々を重ね、エレナやロイドとの別れを経て、辿り着いたのがこの夜の森での最期の時間だなんて、想像さえしていなかったのに。けれど、もう後戻りはできない。
「カトレア……君と出会えて、本当によかったよ。あの夜会で、俺は場違いな下級貴族として立ち尽くしてたけど、君を見て、放っておけないと思った。あれからいろいろあったけど、後悔はしてない」
「わたしだって、あの時あなたが声を上げてくれなかったら、きっと殿下に踏みにじられるばかりの人生で……何も抵抗できなかったかもしれないわ」
「それでも、結果的には俺たち……ここまで追いつめられて、殿下に翻弄されて、残ったのはこの短剣だけって……皮肉だよな」
「……そうね。だけど、わたしは怖くない。あなたがそばにいてくれるから。ひとりじゃないもの」
カトレアが俺の胸元に額を押しつけ、涙を落とす。俺はその肩を抱きしめながら、そっと短剣を持ち上げるようにして彼女の手に添えた。先ほどから二人で握っていた切っ先が、月明かりを弱々しく反射している。
「殿下の兵たちが迫ってる。もし見つかれば……どんな仕打ちを受けるかわからない。公開処刑か拷問か、考えたくもない」
「わたし、あなたがどんな目に遭うか想像するだけで、もう胸が張り裂けそうで……。だから、わたしはやっぱりあなたと一緒に最期を迎えたい」
「……本気なんだな。死ぬのは、怖いよ」
「ええ、怖いわ。だけど、あなたと離れて生きるほうがもっと怖い。そう思えるほど、わたし……あなたを愛してるの」
その告白に、涙がこぼれる。俺は声にならないほどの熱い思いに押し流され、カトレアの頭を抱き込んだ。彼女の髪から漂うかすかな香りは、どんな荒れた逃亡生活でも消えることはなかった。今がそれを感じられる最後の瞬間なのかと考えると、心が締め付けられる。
「俺もだ。君と一緒じゃないと、生きてる意味なんてもう……何度も自問したけど、答えは出なかった。結局、こうするしかない」
「そう……。悲しいけど、もう仕方ないわ。アレン……わたし、あなたを最期まで信じてるから」
「うん……。俺だって、君を絶対離さない」
ぎゅっと、短剣を握りしめたまま彼女の手の甲に重ねる。彼女の指先は震えているが、その震えは決意の色でもある。まわりは闇と静寂、そして遠くに兵たちのざわめき。俺とカトレアだけが小さな空間を共有しているような感覚だ。
「もし……もし来世なんてあるなら、その時は平和な場所で出会いたいね。誰にも追われず、自由に暮らせる世界で」
「ええ。普通に笑い合える世界がいいわ。王太子や権力者に振り回されない、そんな穏やかな暮らしができるなら、あなたを困らせながらも幸せになりたい」
「困らせるって……そこはお互いさまだろ」
「ふふ……かもしれない。だって、わたし勝気なところあるし。あなたもなかなか負けず嫌いだもの」
わずかな笑いがこぼれるが、それはすぐに涙に変わる。こんなにも愛おしい人を、こんなにも愛される自分を、どうして世界は許してくれないのか。そんな無念が湧き上がってやりきれない。けれど、もう時間がない。
「カトレア……」
「うん、わかってる。……もう言葉はいらないかもね。あなたが抱きしめてくれるだけで、じゅうぶん」
「……ありがとう。俺も、そんな気がする」
俺たちは再び抱き合い、そして唇を重ねた。深く、ゆっくりと、それでいて切実な熱が伝わってくる。長くは続かない――兵士たちの足音が森の木々を軋ませ、犬の吠え声がはっきりと響いてきた。腰を落としたままではすぐ見つかるかもしれないが、俺たちはもう逃げようとはしない。
「……愛してるよ、カトレア。君の笑顔も涙も、全部俺の宝物だった。最期くらい、俺が責任持って、一緒に逝こう」
「ええ。あなたがいるから怖くない。正直、まだ生きたい気持ちもあるけど、それはもう叶いそうにないもの」
「ごめんな。救えなくて。……ずっと、おまえを幸せにしたかった。それだけが、俺の願いだったのに」
「救ってくれたわよ。少なくとも、わたしはずっとあなたの背中を見て生き抜いてこれた。だからこそ、最期のこの一瞬だってあなたがそばにいる。……わたしは幸せよ」
短剣を握る手が汗ばんで、相手の指の震えが伝わる。こんなにも痛切なシーンに、自分がいることがまるで悪い夢のよう。けれど、温もりを感じるカトレアの体は紛れもなく現実だ。
「じゃあ……逝こうか。一緒に、どこまでも」
「……うん。あなたとなら、どこへだって行ける。例えそれが死の淵だとしても」
「……ありがとう。次の世界でも、必ず君を探すよ。そのときは平凡な暮らしでかまわない。俺は君だけを見ていたいから」
「わたしも、必ずあなたを見つけるわ。もう王族とか貴族とか関係なく、普通に恋人として結ばれたい……」
彼女の涙が一筋、頬を滑り落ちる。そのまま刃先のところにしずくが染みこむように落ち、月明かりをわずかに反射して儚く光る。背後で犬の吠え声が急激に近くなり、兵士の「こちらだ!」と叫ぶ声さえ聞こえるのが皮肉なほどだ。
「時間が……もうないな。見つかる前に、二人で……」
「ええ。怖いけど、あなたがいるから大丈夫」
「……ごめんね。愛してる、カトレア」
「わたしも……愛してるわ、アレン」
唇を結び、お互いの瞳を見つめながら短剣をそっと動かす。暗闇の中、兵たちの姿が木陰にちらつくのが視界の端に映り、もう後戻りはできないと悟る。犬の鳴き声がごく近くで轟き、兵が木々を薙ぎ払うように進んでくる音がする。
「次の世界でも、必ず君を……」
「うん……待ってるわ。わたし……信じてるから」
短剣を持つ手がわずかに踏み込む。カトレアは目を閉じ、微笑を浮かべながら頬を伝う涙を隠さない。月の光が、まるで二人だけを優しく包み込み、周囲の悲惨さをあざ笑うかのように輝いている。俺の胸は締め付けられ、呼吸がどこか浮ついた感じで苦しい。
「ありがとう……カトレア」
それが最後の言葉になるかもしれない。兵士の気配がもう目と鼻の先だ。どんなに抗っても、手遅れだとわかる。だからこそ、一緒に逝くと決めた。俺たちだけの小さな誓いを胸に、目を閉じる。カトレアの震える唇から吐息が漏れると同時に、犬の吠え声が甲高く森を震わす。
「……大好きよ、アレン……」
彼女が小さく囁く声は、闇の底に消えていくかのようだ。握り合う指先を離さないまま、二人は最期の瞬間へと足を踏み入れる。来世で再会する、その約束だけが刹那の救いだった。惨めで悲しくて、でも確かな愛を感じながら――こうして俺たちは、静かに月下の夜に溶け込んでいく。




