第29話 選ばれた道①
まだ空が白み始める前のことだった。夜闇が森の木々を支配する最後の時間帯、俺たちはもうほとんど走れなくなり、苔むした岩のそばで肩を寄せ合っていた。体力は限界で、呼吸は乱れたまま落ち着かない。耳を澄ますと、風に乗って兵士の声がかすかに聞こえる。けれども、もはやそれに焦る気力すら残っていない。
「このまま……見つかったら、どうなると思う?」
小さく囁くように問いかけてみる。カトレアは背を丸め、目を伏せたまま短く息をついた。頬には疲労と絶望の色が濃いが、それでも彼女は瞳に穏やかな光を宿して、俺の隣にいる。それが唯一の救いかもしれない。
「どうなるかなんて……想像するまでもないでしょう。王太子殿下がわたしたちを許すわけがない。きっと見せしめや拷問、あるいは公開処刑。どれも……ろくな結末じゃないわ」
「だよな。俺たちはもう、国賊扱いだし……ロイドも裏切った以上、誰も助けちゃくれない。彼らが俺たちを生け捕りにしたいのは、公開処刑という見世物にするためだろう」
「うん……悲しいけど、それが現実。こんな形で、王太子に蹂躙される未来が待っているのだとしたら……」
夜露に濡れた地面が冷たく肌を刺す。俺はそっとカトレアの肩に手を回し、彼女を温めるように抱き寄せた。ほかにどんな方法があろうと、これで世界が変わるわけじゃない。兵士たちの声はまだ遠いが、いずれこの森全体を包囲して押し寄せるのは時間の問題だ。
「カトレア……ごめん。俺、何一つ君を救えなかったよ。殿下の不正を暴こうとしたけど、証拠も焼かれたし、エレナさんも……全部失ってきた」
「いいのよ。そんなこと、あなたが一番苦しんでるんだもの。わたしは、あなたが傍にいてくれただけで救われたわ。ほんとに……」
彼女は小さく首を振りながら微笑む。その笑顔が切なくて、俺は息苦しさをこらえるように唇を噛む。彼女が震える指先で自分の懐へと手を入れるのが見えた。そして、そっと取り出したのは短剣――護身用として持っていた小さな刃物だ。
「もう、こうするしかないと覚悟はしてたの。いつか本当に逃げ場がなくなったら……わたしたち、二人一緒に……って」
彼女はその短剣を、震える手で俺の手の上に重ねる。胸が軋んで、思考が一瞬だけ止まった。あまりに生々しい選択肢を突きつけられているのを理解しつつ、それでも拒めない自分がいる。
「……苦しいね。こんなの、誰も望んでないのに」
「うん。でも、こんな未来なら、わたし……あなたと一緒に終わりたいの。王太子に蹂躙されて、一人で死ぬのだけはいや。あなたを奪われるなんて……もう耐えられない」
彼女の瞳に涙がたまる。その背中を引き寄せ、強く抱きしめると、カトレアの体がかすかに震えているのがわかった。夜の静寂が、まるで俺たちをあざ笑うかのように冷え切っているけれど、彼女の体温だけは確かに感じられた。
「俺だって君を守りたかった。だけどこうなった以上、最後まで一緒にいるしかないよな。……本当に、すまない。守るって言いながら、最終的にこんな結論しか出せないなんて」
「いいの。あなたのせいじゃない。王太子と、この国の理不尽な力が悪いんだから。あなたがわたしの隣で戦ってくれたの、知ってるもの」
「……ありがとう」
わずかな月明かりを受けて、短剣の刃が冷たく光る。もう兵士たちの足音や犬の吠え声が森の中で響いているのが聞こえる。体を寄せ合う彼女から離れる気になれず、俺はそっと短剣を握りしめた。身体の奥で、何かが壊れていくような感覚がある。
「……お願い。アレンの手で終わらせて。最期まで、わたしをあなたのものにして」
その声は震えながらも、不思議に穏やかな微笑みを宿していた。カトレアは涙を流しながら、でも怖いくらいに落ち着いた表情で俺を見つめている。夜の森で死を覚悟するなんて、こんな絶望があるものか。
「カトレア……」
「最後まであなたを信じたいの。だから、あなたがわたしの命を奪ってくれるなら、少しも怖くない。……わたし、ほんとにあなたを愛してるから」
「……俺も。離れないでくれ。絶対に……離さないで」
心が押しつぶされそうな重さを感じながら、短剣の柄を握った。とてつもない罪悪感と愛情がないまぜになり、呼吸が乱れているのが自分でも分かる。耳を澄ますと、近くの林から犬の鼻息と兵士の話し声がはっきりと聞こえる。時間はもう、ほとんど残されていない。
「カトレア……俺が最後まで君を抱きしめて、命を奪うなんて……それでも、やるしかないのかな」
「こんな国のどこにも、わたしたちを救う道がないなら……いっそ二人で逝きたいわ。アレンに抱かれて、何もかも忘れたい。今まで辛かったけど……」
「うん。俺だって、もう無理だ。生き延びても待ってるのは拷問か公開処刑か、あるいは君が殿下に蹂躙される地獄だろう。そんなの嫌だ。なら……」
言葉が詰まり、目の奥が熱くなる。俺は顔を歪めて涙がこぼれそうなのをこらえながら、彼女の髪を撫でた。こんな最期を迎えることになるなんて、想像もしなかったのに。それでも、これが二人に残された道かもしれない。
「ごめん……ごめんな。ほんとに、救えなくて……」
「違うの。あなたがいてくれたから、わたしはずっと生きてこれたのよ。どんなに苦しくても、あなたがそばにいてくれた。もうそれだけで十分」
「……ありがとう、カトレア。最後まで、俺も君を抱きしめていたい」
彼女の手が俺の手を包み込み、短剣の刃を震える指先で軽く撫でる。兵士たちの声が一段と近づいてくるのを肌で感じながら、俺は最期の覚悟をかき集めようとしていた。呼吸が乱れ、全身が震えるが、カトレアの体温だけは確かだ。
「兵士が来る前に……わたしたちだけの場所で終わりたい」
「わかった。怖いけど、君がそう望むなら。最後まで、俺は君を抱えて離さない」
「うん。ありがとう。愛してるわ、アレン……」
静かな声とともに、彼女の涙が一粒、頬からこぼれ落ちる。俺も限界で、胸が軋むような痛みを感じながら彼女の唇に短いキスを落とした。周囲の暗闇が一層濃くなるのを感じ、敵が間近まで来ているのがわかる。遠くで犬が激しく吠えだし、「こっちだ!」という怒声が森を割る。
「行こう……。二人で……」
その瞬間、森の闇と月の光だけが俺たちを包む。どうやって死の瞬間に至るのか、まだ定かではない。けれど、ここで待ち受ける惨劇を回避するすべはもうないのかもしれない。一緒に最後まで――それがカトレアと俺の悲しい誓いだった。
震える彼女の手を握りしめ、短剣を持つもう一方の手をそっと持ち上げる。泣きそうな声が漏れそうになるが、ぐっとこらえる。もう時間はない。やがて夜の闇がほんの少し色を失い始め、森の奥から差し込む微かな光が俺たちの輪郭を浮かび上がらせる。
兵士たちの足音がほとんど目と鼻の先にまで迫った今、二人きりの穏やかな時間は二度と戻らないだろう。それでもカトレアの瞳には哀しげな微笑が浮かんでいて、「最期まで……あなたのものにして」と掠れた声で繰り返す。俺は唇を結び、彼女を強く抱きとめた。




