第28話 二人だけの誓い③
遠くから、兵士が何かを怒鳴っている声が風に乗ってかすかに響いてくる。犬の吠え声らしき音も混じっていて、鳥肌が立つような不安を煽られた。夜の森がひっそりとしているはずなのに、その声と犬の鳴き声だけは際立って耳にこびりつく。俺は嫌な予感に襲われつつ、カトレアの手をそっと握る。
「もう……追っ手が近いみたいだ。犬まで使われたら、この森の奥も時間の問題かもしれないな」
苦い笑みを浮かべようとしたが、喉がうまく動かずに言葉が喉に引っかかった。心のどこかで“まだ逃げたい”という感情が渦巻くが、体力は限界に近いし、兵士の包囲も固まった今、これ以上の奇跡はまず期待できない。わずかな月光だけが、木々の合間を縫って俺たちの所在を淡く照らしていた。
「……時間の問題か」
カトレアが小さく重ねるように呟く。その瞳には涙が浮かんでいて、今にもあふれそうだ。荒れた呼吸を整えながら、彼女は俺に寄りかかるように身体を傾ける。夜風の冷たさで肩が震えているのが伝わってくる。
「アレン……わたし、どうしてこんなことになったのか、ずっと考えてたけど……答えなんて出ないわ。逃げても逃げても追われて、もう……」
「もういいんだ、考えなくて。俺たちはここまで精一杯走った。それでも届かなかったなら、仕方ないさ……」
言葉を吐きながら、自分自身も胸が痛む。仕方ないと言い聞かせても、後悔や無力感はどうにもならない。カトレアがうつむいたまま、手を握り返してくる。その強さに、彼女の必死さが感じられた。
「でも、わたしは……最期まであなたと一緒にいられるなら、それでいいかもしれない。王太子の手に落ちて苦しむくらいなら、あなたの隣で……」
「そんなこと言うな。生きる道をまだ探しているんだから……」
「ごめん。でも怖いの。もし、あなたが先に死んだらどうなるの? わたしはひとりで殿下に何をされるかわからない。そんなの考えたくもないわ……」
言葉が痛々しいほど響く。俺だって同じだ。カトレアを残して死ぬなんて想像したくないし、彼女が王太子のもとでどんな仕打ちを受けるか考えただけでも、胸が張り裂けそうだ。ならば――心中に近い形で最後を迎える道しかないのか。そんな絶望が頭をよぎる。
「やめよう、そんな話……って言いたいけど、本当にもう逃げ場がないのかもしれない。犬まで出されたら森の中でもすぐ見つかるだろうし……」
「……ねえ、アレン。もし、これが最後の夜だとしても、わたしはあなたと一緒なら怖くない。あなたと離れて生き延びることなんか考えられないの」
「カトレア……」
彼女が微かに微笑み、だけど目には涙をためている。その表情が切なくて、たまらなくいとおしい。俺は衝動的にカトレアを抱きしめ、その頭を優しく引き寄せる。森の冷たい空気にまぎれて、心臓の音がやたら大きく感じられた。
「俺も同じだ。君がいない世界なら、生きてても意味なんてないかもしれない。君を守れないなら、自分なんて……」
「ううん、あなたは、わたしをここまで守ってくれた。後悔してても、こうして傍にいてくれるだけで、わたし……」
声が震え、言葉が途切れる。俺は強く抱きしめたまま、彼女の頬に触れてそっと持ち上げる。夜の月明かりが木の枝越しに降り注ぎ、今はこの薄暗い森が私たちの全世界みたいに感じられた。外では犬の吠え声と兵士の声が、だんだん大きくなってきているのがわかる。
「いつ見つかってもおかしくないな……。でも、君だけは守りたい。最後まで……」
「わたしも、あなたを失うくらいなら……」
彼女の瞳が揺らぎ、涙が一筋頬を伝っていく。言葉にならない感情が彼女を震わせているのが手に取るように分かる。俺はかすかに息をついて、そっと彼女の肩を引き寄せ、唇を重ねるように口づけを交わした。
触れ合うだけの儚いキス。それなのに胸が苦しくなるほどの重みがあった。お互いの心臓が同じリズムで震えている気がする。ほんの一瞬の静寂は、まるで最期の安らぎを求めるかのように温もりに浸る時間だった。
「大好きだ、カトレア……。こんな言葉、もっと平穏な場所で伝えたかったけど」
「うん……ありがとう。わたしも、アレンと出会えて本当に幸せ。たとえ、こんな最悪の道を辿っていても……」
彼女は涙声のまま、強くしがみついてくる。今この瞬間の思いを形にするすべがないのがもどかしい。兵士が近づいているなら一刻も猶予がないのに、体が動くより先に心が絡みついてほどけない。
「もし明日がこなくても、一緒にいるって約束したよな。俺は絶対に君を一人にしない。君も俺を置いていくなよ」
「もちろん……離れない。こんなひどい世界なら、わたしはあなたと消えちゃいたいくらい」
「カトレア……」
抱き合う身体が小さく震えているのは寒さだけのせいじゃない。俺も同じように震えている。愛と絶望が入り混じった感情が胸を満たし、頭がふわふわとするような感覚に襲われる。遠くから犬の吠え声がやけにはっきりと聞こえるのが、まるで死神の足音みたいで不気味だった。
「怖い……わたしたち、まだ生きてるのに、こんなにも死を近くに感じるなんて」
「でも、もう泣かないで。せめて最期の瞬間まで、笑顔を覚えていたいんだ。気持ちだけは……」
「ええ、そうね。あなたと一緒なら、何も怖くないって思いたい。たとえ王太子に殺されるとしても……」
瞳に潤みを残しながら、彼女は小さくうなずく。俺もそれに合わせるように目を閉じ、再び唇を重ねた。お互いを慰め合うような、苦しくて切ない口づけ。腕の中にある彼女の体温と鼓動だけが、いまの俺を支えている。
「……カトレア」
「なに?」
「ありがとう。大好きだ。これだけは、どんなに世界に裏切られても、変わらない」
「わたしも……。だから、もし兵士たちが迫ってきても、もう何も迷わないわ。あなたを置いて生き延びる道なんて絶対に選ばない」
彼女の言葉が、月光の冷たさを溶かすように胸へしみ込む。夜の深さはまだ続き、先ほどよりも吠え声や兵士の声は近づいている気がした。でも、そんな恐怖より、彼女の存在が何倍も大きかった。
「じゃあ、行こうか。いや……行くところもないけど、少しでも移動して、夜が開ける前に仕切り直そう」
「そうね……行きましょう。最期まで逃げ続けて、それでもどうしてもだめなら……」
「……うん、一緒に……」
わずかな言葉で交わされた意図は、すでに共有されている。まるで心中宣言のような約束が、二人の胸を締め付ける。その苦しさと甘美さを味わいながら、俺はカトレアの手を再び握りしめる。夜の森は深淵の闇をたたえ、月の光だけが薄白く地面を照らす。
「行こう、カトレア。静かだけど……この静寂はきっと長くは続かない」
「うん……。こんな静寂、まるでわたしたちの最期を待ってるみたいで嫌だけど……あなたとなら一歩も怖くないわ」
「ありがとう。俺も……君がいればまだ走れる」
月光の下、二人はもう一度固く抱き合い、ほんの一瞬の安らぎを共有する。互いの手を離すまいと、指を強く絡ませあう。その先には、まだ兵士の足音や犬の鳴き声が待ち受けているだろう。けれど、どんな未来があったとしても、この想いだけは変わらないと確信した。
こうして静かに森の闇に溶け込むように、二人は立ち上がる。月の光だけが、その姿を淡く照らしていた。どこへ向かうのかもわからないまま、手を取り合いながら闇へと歩き出す――ただ、お互いが隣にいることを確かめ合って。




