第28話 二人だけの誓い①
森の深い静寂が、呼吸の乱れを余計につきつけてくる。倒れ込むように走って、ようやく追っ手の足音が遠のいたと感じられる場所まで来た。夜の闇が濃く垂れ込め、道なき道を踏みしめた足はもはや痺れるほどの疲労を抱えている。
俺は荒い息を吐きながら、後ろを振り返った。木々が密集しており、そこに人影は見当たらない。兵士やロイドがすぐに追ってこないのなら、少しは猶予ができるかもしれない。わずかにほっとして、足元の落ち葉に膝をつきそうになる。
「……カトレア、平気か?」
肩越しに呼びかけると、カトレアは半ば呆然とした表情で、ゆらりと足を止めた。頬に浮かぶ汗、浅く乱れた呼吸、そしてその瞳には涙が光っているのがわかる。返事を返すことすらきついのだろう、彼女は唇を震わせながら「はぁ……はぁ……」と息を繰り返す。
「ちょっと……息を整えないと……もう、走れない……」
彼女は疲労の限界に達していた。足もとがふらつき、森の木陰に手をつこうとする姿が危なっかしい。慌てて腕を伸ばすと、ちょうど彼女の腕を支える形になった。
「大丈夫、もう追っ手も近くにはいないっぽい。しばらく休もう」
「ごめん……わたし、走るしかなかったけど……こんな……」
震える声。カトレアが意識を失うほどの勢いで前のめりになるのを、どうにか抱きとめる。小柄な身体がぐったりと俺に預けられ、荒い呼吸だけが耳に押し寄せる。このままでは倒れてしまいそうだ。
「いいって、無理もないよ。この数日、まともに寝てないし、食事も取れてない。人間が走り続けられるわけないだろ」
「わたし、もう……はぁ、はぁ……動けない……」
「わかった。ここで一旦座ろう。木の根元に腰を下ろして……ほら、休んでくれ」
周囲を警戒しつつ、彼女を木陰にそっと下ろす。落ち葉がクッション代わりになるが、決して快適とは言いがたい。それでも、夜の森を無理やり駆け抜けてきた身体には、地面に座れるだけで大きな救いだろう。俺もその隣に腰を下ろし、息を整える。
「こんなに走って……それでもいつ見つかるかわからないなんて……どうすればいいの……」
カトレアの声は涙で詰まっている。周囲に人の気配は感じないが、兵士が巡回していないとも限らない。いつ音もなく背後を取られるかと思うと、心が落ち着かない。だけど、もう体力が残っていない。ほんの少しでも休むしかないのだ。
「俺もわからない。ただ、ここまで来れば、相手も慎重になるはずだ。森の奥で手分けするにも人数がいるし、夜間の移動は彼らだって危険だろう」
「そう……だといいけど……。怖いわ……どこへ行っても包囲されてるみたいで」
「俺だって怖いさ。けど、あんな地獄の廃墟から抜け出せただけでも一歩前進だ。ロイドの顔を見ずに済むだけ、気が楽かもしれない」
ロイドの名を口にすると、胸が強く軋む。かつて友だった人物が今や王家の兵を率いて俺たちを追い詰める存在――あの廃墟での再会と決別を思い返すたびに、自分の選択の悲惨さを思い知る。
「ロイド……本当に、昔はあなたの大事な友達だったのに……。こんな形で憎み合うなんて、最悪よ……」
「だよな。口では仕方ないと言われても、納得できるわけがない。でも、もう決裂だ。あいつに情けをかけられたところで、どうにもならないし……」
「……あなた、本当に大丈夫? あんなに辛そうな顔して……ロイドが敵になって、王太子が死ぬまで追う気でいて……わたしたち、絶望しか残ってないのに」
彼女の瞳が俺を見つめる。その奥には、失意や怒りだけでなく、小さな希望を探しているような儚げな感情が宿っているのがわかる。俺は声を詰まらせる。
正直、心はボロボロだ。領地を失い、友情を失い、仲間を失い、身を寄せ合うカトレアまでこの苦しみに巻き込み、それでもまだ逃げ続けている。それが正しいのかどうかすら、もうわからない。
「大丈夫とは言えないけど……君がいるから、まだ立ち止まらずに済んでる。全部を諦めるよりは、こうしてでも生き延びたいと思うんだ」
「わたしも……アレンがそばにいなければ、とっくに挫けてた。エレナさんの死や、ロイドの裏切りや……自分ひとりじゃ支えきれないほど重いのに、あなたがいるからかろうじて耐えられるの」
「そっか。それなら……俺たち、まだ一緒に走れるかもな。もうどこにも安息はないだろうけど」
「安息……そう、そういうものが欲しいのに。どこへ行ったって命を狙われるだけ……あまりにも辛いわね」
彼女がぽつりと呟き、夜の森に湿った空気が溶け込む。枝葉が風に揺れてカサカサと音を立てるのが、むしろ不気味なほど耳に響いてくる。兵の足音は聞こえないが、いつ再び近づくかわからない。
「でも、いまは少し休もう。走り続けても疲労が溜まるだけだし、息を整えないと足を傷める」
「うん……。ごめんね、本当はあなたのほうがきついはずなのに……わたし、頼ってばかりで」
「気にするなって。俺だって君の存在に助けられてるんだから」
彼女は微かに笑みを浮かべるが、その瞳にはなお不安がちらついているのがわかる。姿勢を崩して地面に座り込み、落ち葉の上で背中を丸めた。俺も傍らに腰を下ろし、周囲の木立に警戒を向けながら、彼女をそっと抱き寄せる。
「逃げ続けて……もう体力も残りわずかだな。くそ、こうなるとは思わなかったよ」
「わたしも……王太子に逆らうって、こういうことなんだって身をもって知ったわ。……こんな辛い思いをするくらいなら……」
最後の言葉があまりにも意味深に響き、俺はドキリとして彼女を凝視する。カトレアの唇は震え、まるでこれ以上の苦しみに耐えきれないかのように見える。その瞳が潤んでいて、今にも涙が落ちそうだった。
「なあ、カトレア。そんなこと、考えないでくれよ……」
「……ごめんなさい。ただ、どうしてこんなことばかり……。もういっそ、最初からあなたと出会わなければ、こんな逃亡生活はなかったのかも……とか、考えちゃうの」
「……お互いに救い合ったつもりなのに、結果はこんな形か。だけど、俺は君と会わなかったら、もっとつまらない人生を送ってた気がする」
「ありがとう。でも……本当に、わたしたち、もう行き場がないわよね」
涙がぽろりとこぼれ落ち、彼女は枯れ葉を握りしめた。見れば、その指先が白くなるほど力を込めている。どれほどの無念と悲しみがこもっているか想像するだけで、胸が締め付けられる。
「ごめん……俺にはまだ、こんなところで終わりたくない気持ちがある。君を守り抜きたいし、ロイドや殿下に屈するなんてできない。わがままかもしれないけど……」
「ううん、わたしもそうよ。今は疲れて何も考えたくないだけ。……もう少し走れるなら、走りたい。あなたと……一緒にいたいから」
「ありがとう、カトレア。そう言ってくれて救われる」
彼女は微苦笑を浮かべ、そのまま地面に体を投げ出すようにして目を閉じる。森の冷たい夜気が身体を蝕むが、今はとにかく体力を取り戻さないと、次にどんな絶望が待っているかすら乗り越えられない。
「ここで少しだけ休もう。兵士が近づく音がしたらすぐ逃げる。寝るというより半分意識を研ぎ澄まして……」
「わかってる。はあ……はあ……こんな辛い思いをするくらいなら……いっそ……」
カトレアが口ごもるように再度呟き、俺は強く首を振る。もしその先に“死”や“諦め”が待っていても、まだ言ってほしくない。息苦しさを押し殺しながら、俺は彼女の手を握る。
「言わないで。走ろう、まだ。最後まで。……こんな辛い思いをするならって考える気持ちもわかるけど、それは一緒に越えよう。そうじゃなきゃ、俺たちがここまで耐えた意味がない」
「……うん。ごめん、ちょっと愚痴りたかっただけ。あなたがいるから、わたしはまだ頑張るわ」
「そうだ、二人なら乗り越えられる。ロイドの裏切りも、殿下の包囲も、何とかなる……はず」
自分で言いながら、空元気に近い声に苦笑する。しかし、カトレアがぎこちなく微笑んでうなずく姿に救われる。夜の森はなお深く、先を不安にさせる闇だが、この瞬間だけはお互いを感じ合える。
こうして俺たちは森の片隅に身を寄せ、束の間の休息をとる。薄れる体力、震える手足、絶望の淵に立ちながらも、共にいることでかろうじて明日へとつながる一歩を保っている。兵士の足音がいつ再開するかわからない状況で、それでも二人は木陰の中、寄り添って呼吸を整えるしかなかった。
そして俺の耳には、彼女の微かなつぶやきがこだまするように残る――「こんな辛い思いをするくらいなら……」。口には出さないが、俺も同じ考えが胸をよぎってしまう。けれど、いまはそれを振り払うように彼女の肩を支え、次の一瞬に備えるしかないのだ。




