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月下の反逆者 ~王太子に逆らった青年と断罪された令嬢の逃避行~  作者: ぱる子


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第27話 ロイドとの再会と決別③

 鼻を突くような埃と古い木材の香りが、廃墟の廊下を満たしている。俺はカトレアの手を握りしめながら、息を切らせて先を急いだ。後方で響くのは兵士たちが一斉に足を踏み鳴らす音と、ロイドの怒声。木製の床が軋む振動が、追っ手の迫りをいや応なく感じさせる。


「アレン、もう角を曲がる余裕がないわ! 正面から兵士が来てるって……」


「大丈夫。まだ裏口を探すしかないんだ。廃墟なんだろ? 壁が崩れてる場所くらいあるはずだ!」


 彼女の焦った声に応じて、俺は廊下の脇にある扉を次々に引いてみる。だが、どれも半壊していて通れなかったり、瓦礫に塞がれていたりする。後方から「そっちへ行ったぞ!」という兵士の声が聞こえるたびに、心臓が跳ね上がる思いだ。


「くそ……このままじゃ廊下の先で行き止まりかもしれない。別のルート……!」


「待って、あそこ……壁が崩れて外が見えてるわ!」


 カトレアが鋭い視線で奥を指さす。半壊した扉の向こうに、外の森が薄暗く覗いているのを見つけ、俺は一瞬だけ鼓動が沸き立つ。そこを突破できれば、この廃墟から脱出できるかもしれない。もちろん、外に出れば兵士の包囲が待っているかもしれないが、室内に留まれば確実に捕まるか殺される。


「よし、行くぞ!」


「ええ、わかった……!」


 扉を蹴破る勢いで踏み込み、崩れた壁から細い隙間を探す。木の柱が折れて引っかかっているが、力を込めればなんとかどかせそうだ。後ろでは兵士の一団が足早に迫ってくる気配が加速しており、カトレアも「急いで……!」と声を張り上げる。


「大丈夫、すぐに出られる……! くっ、重いな……!」


 木片や石屑をどかし、どうにか人ひとり通れるだけの穴をこじ開ける。廃墟の外には雑草が絡み合う中庭があるらしく、そこから森に続く道が見えた。いつまでも霧が立ち込めるような薄暗い風景だが、今は絶好の逃亡ルートだ。


「アレン、早く……! 兵が来るわ!」


「わかってる……さあ、行こう、カトレア!」


 カトレアの背を押し、彼女を先に隙間から出す。続いて自分も身体を捻じ込むようにして何とか外へ脱出。廃墟の石壁に背をつけると、いきなり視界に飛び込んできたのは深い森の木々が立ち並ぶ濃い緑だった。


「そこだ! 今すぐ捕まえろ!」


 兵士の怒鳴り声が耳を射抜く。振り返れば、扉を突破した数名の兵士が俺たちに気づき、さらにロイドの声が「追え! 絶対に逃がすな!」と響くのが聞こえる。いまだに刺さるような痛みを感じるが、ここで立ち止まれば終わりだ。俺はカトレアの手を握り、荒れた中庭を踏み越えて森へ飛び込んだ。


「森へ行くぞ! こっちなら木立が密集していて兵士が追いにくいはずだ!」


「うん……はあ、はあ……でも、その先に道があるかしら……」


「わからない。もともとここは捨てられた別邸だし、道があっても廃れてるだろうけど、走るしかない!」


 俺たちは藪をかきわけ、足をもつれさせないよう必死に走る。背後では鎧を打ち鳴らす音や兵士同士の掛け声が絡み合い、まるで地獄の鐘のように追いすがってくる。カトレアの呼吸が荒く、体力の限界を感じさせるが、ここで足を止めたらすべてが終わりだ。


「カトレア、大丈夫か……!」


「うん、頑張る……! でも、ちょっと苦しい……」


「森の中は道が狭いし、あいつらの隊列も崩れるはずだ。少しでも距離を稼ごう!」


 朝の光が木漏れ日の形で森を照らしている。しかし、緑が深すぎて先が見えない。根が絡む地面に足を取られそうになりながらも、なんとか踏ん張って走る。背後から兵士の声が迫ってきて、ロイドの「そっちへ回れ!」という指示らしき叫びが微かに聞こえた。


 息苦しさに胸が焼ける。何度こんな逃亡を繰り返しただろう。勝ち目のない追撃の中で、俺たちは走ってばかり。カトレアの袖を掴みながら、頭を必死で回転させる。道のりが遠くても、どこかで兵士の包囲を抜けるチャンスがあるかもしれない――そう信じたいが、現実味は薄い。


「……はあ、はあ……! アレン、これ以上逃げても……いつ捕まるかわからないわ」


「わかってる。でも、逃げないで捕まるよりはマシだ。ロイドがここまでの人数を連れて来たってことは、殿下の本気なんだ。奴らは本当に俺たちを殺す気だぞ」


「……そう、だよね。こんなに兵がいて……まるで辺り一帯を包囲してるみたい。もうどこにも安息なんて……」


 彼女の言葉に俺は唇を噛む。分かっている、ここが最後の逃亡かもしれない。けれど、殿下への抵抗をやめるという選択肢はない。もし降伏したら、俺とカトレアの命は確実に断たれるか、苦しみの限りを味わうことになるだろう。どのみち絶望だが、少しでも可能性があるなら逃げ続ける――その意地だけが心を動かしているのだ。


「――くそ……! 踏み石が崩れてる!」


 森の細道にかかる小さな段差が崩れかけており、足を乗せた瞬間にガクンと石がずれた。俺は咄嗟にカトレアを引き戻すが、彼女がバランスを崩して危うく転びそうになる。抱き留めるように体勢を整えて、一瞬だけ目が合う。


「大丈夫……!?」


「ええ、平気……。もう、死に物狂いね……」


「そうだ、死に物狂いで逃げよう。もし折れたら、そこで終わりだ」


 彼女は小さく震えながらも頷き、先へ足を進める。背景にはまだ兵士の金属音が追いかけてきている。ロイドが大声で「止まれ、アレン!」と叫んでいるのが微かに聞こえるが、もう耳を貸す気はない。友情は先ほど完全に砕け散った。何を言われても、それに従う道などありえない。


「カトレア……今は逃げるしかないけど、行き着く先がどうなるか……」


「わかってる。最悪、この森の奥でわたしたちは……」


 彼女の言葉を最後まで聞かずに、視線を前に向ける。深い森の闇が先に続く一方、周囲を回り込む兵士の足音がいやに近い。鼓動が早鐘のように打ち、息が苦しいほどに熱くなる。


「もうどこにも安息なんてないのかも。俺たち、ほんとにどうしようもなくなって……」


「それでも、あなたと一緒にいられるなら、最後まで走るわ……」


「ありがとう、カトレア。行こう……!」


 彼女の涙混じりの声を背に、木立の間をかいくぐるように走り続ける。兵士の怒声が「囲め! 出口を塞げ!」と繰り返しているのが聞こえるが、まだ視界に彼らの姿は見えない。かろうじて間に合っているようだ。


 森の奥へ奥へと足を進めるにつれ、下草が深くなってくる。土は柔らかく、足を取られる場所も増えてきた。後方ではロイドの声が遠ざかるように感じられ、兵たちの足音も次第に散らばっているのが伺える。もしかすると、これで一時的に巻けたのかもしれない。


「アレン……はあ、はあ……どうにか、抜け出せそう?」


「わからない。兵が全員追ってきてるとは限らないけど……今は森の奥まで行こう。捕まる前に……」


「うん……わかった……」


 彼女の声はもう限界ぎりぎりだ。けれど走る。まるで暗い虫がざわめく林の中を、光もないのに足を踏み出すしかない。少しでも遠くへ――追い詰められた末の本能的な行動だった。


「もう終わりかもしれないって考えてたけど、まだ……まだ走れる。カトレア、しっかり掴まってくれ」


「ええ……あなたも倒れないでね。わたしがあなたを支えるから……」


 息を乱し、彼女の手からほんのり汗が染み出しているのを感じる。でも、その温もりは俺たちがまだ生きている証拠。逃げ場のない状況の中、それだけを頼りに森の闇へ溶け込む。


 背後から、もうロイドの声は聞こえない。代わりに遠くで兵士たちの甲冑がぶつかり合う雑音や「やつらを見失ったか?」と怒鳴る声が微かに混じる。俺とカトレアはそのまま、むせ返るほどの草木の奥へと消えていく。


「アレン……」


 薄暗い森の中、彼女が静かに俺の名前を呼ぶ。振り返れば、瞳に涙を溜めたまま、息を切らせて俺を見上げていた。胸をかきむしるような痛みが込み上げる。先ほどの廃墟でのやり取りが、まるで悪夢みたいに頭を回り続ける。


「大丈夫、まだ逃げられる。落ち着いて。もう少し先へ進もう」


「うん……ただ、あなたの顔が……本当に死を覚悟したみたいで……」


「……そうかもな。どこへ行っても追ってくる殿下とロイド。それでも、今は走るしかないから」


「わたし、あなたを……置いてはいけないわ……絶対に」


 言葉が詰まる。ここまでどんなに苦しくても共に逃げ続けた。安息を得ることは叶わず、闇と恐怖に押し潰されそうだけど、それでもこの手を離す気なんてない。俺はぎこちなく笑みを作り、彼女を励ます。


「行こう、カトレア……たとえ先に待っているのが死でも、今は二人で走るだけだ。俺が君を絶対守る」


「……うん、わたしも。絶対に諦めたくない。せめて、あなたと一緒にいる限りは……」


 再び足を踏み出す。鬱蒼とした木々の間へ逃げ込む俺たちの姿は、兵士の目からすれば闇に溶けて判別しにくいだろう。微かな月光か朝の光か、どちらとも言えない淡い明かりが枝葉を透過してぼんやりと道を浮かび上がらせる。

 こうしてまた一歩、森の奥へ奥へと足を進める。行く先に明るい未来は見えないし、殿下の包囲が緩む気配もない。それでも、ロイドたちの追撃から一時逃れられたような僅かな希望を感じる。わずかでも可能性があるなら、どうにかして二人で生き抜きたい。

 不安を抱えながら、カトレアと共に森の闇へ消えていく。最後に彼女が「アレン……」と震える声で名を呼ぶのを聞いて、胸が締めつけられる。けれど、その言葉に応える余裕もなく、ただひたすら逃亡の足を止められないまま、木々の隙間へと姿を消したのだった。

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