第26話 正義の崩壊③
どこか崩れかけた廊下を抜け、俺は二階の窓の外をそっと覗き込んだ。うす暗い光の中、廃墟の敷地を取り囲む森の先に――複数の兵士らしき影が、ゆっくりと散開しているのが見てとれる。鎧の端がぼんやりと光を反射し、小さな松明の灯が虫のように点々と揺れている。
「やっぱり……外、もう兵士だらけだ。警戒の動きが活発になってる。今さら夜に紛れて逃げ出そうとしても、すぐ見つかりそうだ」
窓枠に隠れるように身を潜めながら、俺は声を押し殺してカトレアに呼びかける。彼女は床に残された壊れかけのソファの側で、胸の前で手を組み、不安そうにこちらを見上げた。
「包囲されてるの……? こっちの廃墟にも、いつ踏み込んでくるか分からないわね」
「正直、時間の問題だろうな。兵士同士が合図を送り合ってるのが見える。すでにこの周辺は囲い込みされた感じだ。おそらく、入口も出口もない」
「そんな……わたしたち、どうやって逃げれば……」
言葉を重ねながらカトレアの手が震えているのがわかる。これだけ逃げ回ってきて、ようやく落ち着けるかと思った矢先に、再び絶望の淵へ突き落とされるような気分だ。俺も内心は動揺が止まらないが、せめて表情を崩さないように努力する。
「大丈夫、落ち着いて。まだ兵士が廃墟の中まで踏み込んだわけじゃない。外を包囲してるだけだから、すぐに突入されるとは限らない。……ただ、外へ出るのは無理かもしれないけど」
「どのみち、ずっとここに留まっても、いずれ見つかるかもしれないわ。殿下がこれほど執拗に追ってくるなんて、こんなに恐ろしいものだったなんて……」
「まったくだ。国賊扱いだし、何が何でもわたしたちを捕まえる気なんだろう。どんな手段だって使ってくるに違いない」
カトレアが息を詰めて目を伏せる。薄暗い室内に立ちこめる埃の匂いすら、彼女の震えを助長しているかのようだ。俺はなんとか彼女を落ち着かせようと、壁に寄りかかっている彼女の側へ近づく。
「無理しなくていい。ここまで逃げてきたんだ、今さら焦って外に飛び出したら確実に捕まる。俺たちの状況は最悪だけど、慌てても仕方ない」
「わかってる。……わかってるのに、体が震えちゃって止まらないの。王太子殿下が、ここまで兵を動員してわたしたちを狙うなんて……本当にどうしようもないわ」
「正義も誇りも、結局通用しないのかもしれない。殿下は力を持ってるから、全部を捏造して俺たちを追い詰める。君が受けた仕打ちも、エレナさんの死も……全部なかったことにされて、俺たちが加害者にされちまった」
「ねえ、アレン……本当に、これ以上どうすればいいんだろう。わたしたち、ずっと抜け道なんてないのかもしれない」
薄暗い廊下の片隅で、カトレアは崩れ落ちるように膝をついた。かつての高貴な令嬢が見せる弱々しい姿に、胸が軋む。俺も間近まで歩み寄り、彼女の肩にそっと手を乗せた。すると、彼女は痛ましげに目を閉じて、うわごとのように呟く。
「見てよ、わたし……ここまでボロボロになって、王都からも家族からも見放されて。エレナさんは死んで、ロイドは裏切って……もう何を信じればいいの?」
「……俺もわからない。でも、君を守るって言った以上、最後まで付き合うよ。殿下がどうあれ、君だけは守りたいんだ」
つい本音がこぼれてしまう。兵士たちの動きがますます活発化している今、そんな約束にどれほどの意味があるかはわからない。けれど、気持ちだけは嘘じゃない。
「アレン……あなたって、本当に……。こんな状況なのに、まだわたしを守りたいって思ってるの?」
「守るしかないだろ。自分の領地も友達も救えなかったけど、せめて君だけは失いたくないから」
「わたしを守ろうとしても、あなたまで……それでも、後悔しない?」
「正直、後悔するかもしれない。でも、今はそんなこと言ってられない。殿下の包囲が完成しようが、この廃墟で見つからずにしばらくは耐えてみせる。それだけだ」
言葉を継ぐうちに、窓の外の光が妙にまぶしく感じられて、俺はそっと目を細めた。兵が廃墟を取り囲んでいるのがわかるだけに、この室内がますます息苦しい。それでも、彼女の震える肩を抱くことをやめたくはない。
「……正義も誇りも、形にならないままだよ。でも、君がいる限り、俺は動けるんだ。偽善かもしれないけど、それでも君だけは――」
自分の言葉が悲鳴じみた決意になりかけたとき、カトレアがふっと表情を緩め、目を閉じる。ほんのわずかな微笑とともに、涙が一滴だけ頬を伝った。
「ありがとう、アレン。そんなこと言われたら、わたし、嬉しいけど同時に苦しくもなる。あなたが犠牲になるくらいなら、いっそ……」
「やめろ、その先は言わないで。どうせ俺たちに逃げ場はないんだ。なら、なおさら一緒にいるしかないだろう?」
「……うん。そうね。ここで離れ離れになるのも怖いし、もう頼れるのはあなたしかいないもの」
彼女を抱き寄せながら、窓の外を再度覗き込むと、兵士がうろつく影がさらに増えたように思える。森の手前にはバリケードらしきものまで見えて、まるで完全包囲の陣形が出来上がっているかのようだ。
「……完全に囲まれたな。夜陰に紛れたところで、突破できる人数じゃない。下手したら、あっちがこっちに踏み込んでくるだけ」
「もう、殿下の思う壺ってことなのかしら。なんて無力なの、わたしたち……」
「いや、それでも君だけは守りたい。正義も誇りも、たぶんこの先なんの役にも立たないだろうけど……」
ぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛む。どれだけ高らかに正義を掲げたところで、この包囲を崩す力が今の俺たちにあるわけがない。だけど、もう心の拠り所はカトレアしかないというのも確かだ。
「アレン……そこまで言ってくれるのに、わたしはなにも……ほんと、申し訳ないわ」
「謝らなくていい。俺が勝手に思ってるだけだ。結果がどうあれ、君が隣にいる限り、俺は走り続ける。――それだけさ」
「……わかった。なら、わたしもついていく。たとえ出口がどこにも見えなくても、あなたがいるなら少しは心強いから」
そう言い合いながら、重たい静寂が再び落ちる。外から聞こえる兵士の動きは、ますます俺たちを追い詰めるかのように感じられる。大勢で連携を取り合い、退路を塞ごうとしているのが明白だ。
「正義も誇りも、たぶん意味がないんだろうな……。それでも、君だけは守りたいんだ」
思わず小さく呟いたその言葉は、廃墟の壁に吸い込まれるように消える。カトレアはそれを聞き取ったのか、うっすらと微笑んで目を伏せた。
「わたしも、同じかもしれない。何かを信じる力なんか残ってないけど、あなたへの想いだけはまだ……」
それ以上の言葉は出てこない。二人とも足元の瓦礫を見つめながら、迫る兵士の気配に怯えるしかなかった。もう時間は残されていない――そんな空気が肌をざわざわと刺す。明日はくるかもしれないが、自分たちには何の救いもないかもしれない。
そして、このまま静かな廃墟に閉じこもっても、いずれは殿下の軍勢が踏み込んでくるだろう。逃げ場のない状況が生み出す絶望感の中で、俺たちは寄り添うように息を潜める。夜も明けきらぬうちに、運命の足音が確かに近づいている――その現実が背中を冷やすけれど、いまはまだただ互いを抱きしめることしかできなかった。




