第26話 正義の崩壊②
朝の薄明かりが廃墟の窓から入り込み、埃の舞う空間をぼんやりと照らしていた。落ちかけた壁紙と剥き出しの柱は、かつての豪奢を思わせる一方で、今や無残な姿をさらしている。そんな中で、俺とカトレアは古いソファに並んで座り、互いに気まずい沈黙を保っていた。
「……ねえ、アレン」
小さな声で切り出すカトレアは、目を伏せたまま何かを言い出そうとしている。胸の奥にためこんだ思いがあるのだろう。俺は彼女の横顔をそっとうかがいながら、言葉を返すタイミングを失う。
「どうしたんだ、カトレア。まだ疲れてるなら、少し休んでたっていいんだぞ」
「ううん、そうじゃなくて……。わたし、あなたの顔を見るたびに胸が痛むの。こんな逃亡生活、あなたなら本来、関わらずに生きられたはずだよね」
「いや、そんな。俺が関わらなくても、今度は君が王太子に踏みにじられてただろ。黙って見過ごすわけにはいかなかったんだ」
「だけど……結果はこんな惨状。領地の人たちも、エレナさんも、ロイドの友情だって……わたしのせいでみんなが不幸になったじゃない」
カトレアの瞳がうるむ。その表情には、重い罪悪感と自己嫌悪が入り混じっているのがわかる。俺は思わず手を伸ばして彼女の肩を抱こうとするが、カトレアは拒むように身を引いた。
「わたしがいなければ、あなたはこんな目に遭わずに済んだ。エレナさんだって、あなたの領地だって傷つかなかったはず……そう思うと自分が許せないの」
「違う。君がいたからこそ、俺は王太子に声を上げられたんだ。君を見捨てるなんてできなかった。俺のほうこそ、ずっと言ってるけど後悔してない。……君を守ろうとしたんだ」
「それでも、こんなになってまで守ってくれて……本当に後悔はないの? だって、わたしたち……いったい何を守りきれたの……?」
投げかけられた言葉に、俺は一瞬息を呑む。たしかに何かを守りきれたかと問われれば、胸を張って“Yes”とは言えない。領地も、仲間も、証拠も……すべてが失われ、いまや廃墟で身を潜める日々だ。
「……悔しいよ。でも、俺が黙っていたら、殿下の横暴は誰が止められた? 君は追い詰められるだけだったんじゃないのか?」
「わたしはただの駒だったわ。レーヴェンシュタイン家の名前を使われて、政略結婚を強いられて、殿下に仕える形だけ……それを嫌がる人はほかにもいたかもしれないわ」
「いや、そいつらだって実際何も言えずに服従してたんだろ? だから俺が――」
「でも、現にあなたの“正義”の行動で、死者が出たし、領地の人も苦しんでる。そんな結果で、本当に後悔はないの……?」
突き刺すような視線で問い詰められると、返す言葉がつまってしまう。俺は拳を握りしめるが、すぐに頭を下げるしかない。正義を貫こうとして多くのものを犠牲にしてしまった――その事実は否定のしようがないからだ。
「……返事ができないってことは、やっぱり辛いのね。ごめんなさい、あなたを責めるつもりはなかったの。でもどうしようもなくて……」
「いや、責められても仕方ない。俺が声を上げなければ、君だけが犠牲になるだけで済んだって考え方もある。まあ、それも最悪だけど……」
「わたしだけが犠牲になれば、あなたの領地は守られたかもしれない。それなのに、あなたはカトレアを守ると宣言して……結果、みんながこんな目に遭ってる。……ひどい結末よね」
彼女の声は涙声になっているが、目から涙はこぼれていない。むしろ、その瞳には悲しみの底に沈む怒りさえ宿っているように見える。自分を責めると同時に、どうしてこうなってしまったのかという苛立ちが溢れているのだ。
「でも、カトレア……。もしもう一度同じ場面に戻れたとしても、俺は多分同じ行動を取るんじゃないかな。君が泣いてる姿を見過ごすなんてできないし……」
「そう言うしかないわよね。あなたは優しすぎるもの。だけど……それでもわたしは自分を責めてしまうの。わたしのせいで、あなたの人生をめちゃくちゃにしたって……」
「めちゃくちゃになってるのは俺だけじゃない。君もまた、王太子に婚約破棄されて、国賊扱いになって、逃げ回って……お互いさまだろ?」
「違うわ。わたしがいなければ……あなたは平穏に暮らせてたはず。いまは戦う理由だってなかったでしょうに」
「うっ……」
言い返そうとしても、頭が真っ白になる。カトレアの言う通り、もし王太子への抵抗がなければ、俺は領地で地味な暮らしを続けられたかもしれない。ロイドも友情を失わずに済んだかもしれない。だが、それが正しかったのか――。
「……ごめん、アレン。こんなことを言っても、今さらどうしようもないのはわかってる。ただ……わたしがあなたを不幸に巻き込んだようで、胸が痛くて」
「わかったよ。君を責める資格なんか俺にはない。むしろ、俺が選んだ道だ。君を守りたいって思って。だけど……」
「だけど?」
「見てよ、この結果。殿下には全然勝てないし、エレナさんは死んだし、ロイドも裏切り、俺の領地も圧迫されてる……。それでも俺は後悔してないなんて言えるのかな」
最後の言葉は自嘲気味になってしまった。実際、後悔なんてしたくないが、無数の犠牲を前にすると堂々と言えないのが本音だ。カトレアは唇を噛んで微かに震える。
「……じゃあ、わたしのせいだって言ってよ。あなたが後悔しているなら、全部わたしの責任にしてくれたほうがマシかもしれない」
「やめろよ、そんなこと……どっちにしても苦しいだけだろ。俺は君を責めたいわけじゃないんだ」
「わたしだって責めたいわけじゃないの! ただ、この状況が苦しすぎて、どうやって逃げ出せばいいかわからないのよ……」
彼女が声を荒らげ、拳をぎゅっと握りしめた。その瞳には結局行き場のない悲しみが溜まっていて、涙すら出ないほど追い詰められているのが伝わる。俺はどうにか言葉を探そうとするが、何も見つからない。
「……ごめん」
「謝らないで。わたしだって……自分が憎くて、でもあなたまでこんなに苦しむのが耐えられない。わたし、あなたを巻き込まなければ、こんな……!」
「やめて、カトレア。もし君がいなくても、今度は俺が黙って殿下に従うことを選んだって、それはそれで地獄だった。仮に平穏でも、心は腐ってたかも」
「そう……言われても、わたしはあなたに感謝しつつも、申し訳なさが消えないの。どうして、もっと上手くやれなかったのかな……」
「……俺もそう思う。もっと上手く立ち回っていれば、誰も死なずに済んだかもしれない。けど、もうどうしようもないよな……」
二人の想いがぶつかり合い、結果として誰も救えなかった苦しさに押しつぶされそうだ。会話が止まり、沈黙が廃墟の部屋に重くのしかかる。廊下から吹き込む風が埃を舞い上げ、微かな光の筋がゆらりと揺れる。その中で、俺とカトレアは言葉を失ってしまう。
やがて、彼女が顔を伏せて小さく息をつく。俺も口を開きかけたが、声が出ない。頭の中を回るのは、「どうすればよかったのか」という問いばかりだ。彼女を守りたい、けれど結果は混沌と死、そして失われた絆。お互いを想うがゆえに、責め合うしかない負の連鎖がここにある。
「……わたし、もう何も言えないわ」
「……俺もだ。ごめん……」
その一言を最後に、視線を逸らし合い、廃墟の空気が一段と重く沈む。互いを責めたり後悔したり、確かに愛しているからこそ生まれる苦しみ。こんな状況では逃亡の作戦さえ考えられず、二人を襲うのは暗い虚無感だった。
言葉も見つからず、足元の瓦礫を見つめたまま、部屋には重々しい沈黙だけが落ちる。外の風の音が不気味に響き、遠くで甲冑を引きずるような兵士の足音が聞こえるのか、ただの風の錯覚なのかわからない。
廃墟の一室で、心の傷を露わにし合っても解決策はない。愛し合っているのに互いを責めるしかない事実が、俺とカトレアの胸をまた切り刻む。ここから出られる道はあるのだろうか。そんな暗い疑問に苛まれながら、俺たちは痛ましい沈黙を共有するしかなかった。




