第26話 正義の崩壊①
朝焼けとも言えない、ただ薄暗い光が廃墟の窓から差し込んでくる。その光は弱々しく、まるで俺たちが置かれた状況の儚さを映し出しているかのようだった。俺は床に腰を下ろし、壁に背を預けながらひっそりと目を閉じる。ここは使われなくなった古い別邸の二階、崩れかけの廊下の奥まった一室だ。
昨夜は疲労の極みにあったものの、どうにかカトレアと短い眠りをとった。俺たちが横になれる床があるだけで、追っ手に気づかれずに過ごせただけで御の字――そう思っても、気持ちはまるで晴れない。心の奥にずっと巣くっている苦味が離れないのだ。
「正しいことをしようとしただけ、だったんだけどな……」
息を吐きつつ、声にならないほどの自嘲が混じる。覚えているのは最初の夜会で殿下や取り巻きに噛みついた自分の姿――あれが全ての始まりだった。周囲の不正を見過ごせない、理不尽を許せないという“正義感”から、咄嗟に声を上げてしまった。その先には、今の自分がいる。
「エレナさんも、ロイドも……領地も……。俺が“正義”を貫こうとしたから、みんな巻き込まれたのかもしれない。そう考えると胸が苦しい」
ひとりごとに近い声でつぶやく。この廃墟の部屋にはカトレアの寝息がかすかに聞こえるだけ。他には誰もいない。だから、静かに本音を吐き出すにはちょうどいい。けれど、その声は空しく乱れた空気に消えていくだけだ。
エレナは命を落とし、ロイドは裏切り、領地の支援も遮断されて――そうやって俺が守ろうとしたものが軒並み壊れていった。あの夜会の瞬間、王太子リシャールに逆らわずに黙っていれば、こんな破滅の道は歩まずに済んだのかもしれないと思うことがある。
「でも……あのとき黙っていたら、カトレアを見殺しにしてたことになる。そしたら、こんな風に共に逃げ続ける関係にはなれなかっただろう」
自分の選んだ道を後悔したくはないのに、結果があまりにも悲惨すぎて、どうしても“間違っていたのでは”と思いそうになる。正義を行おうとした結果が、この惨状だ。周りの人間を不幸に巻き込み、俺自身も国賊扱いされて逃亡の日々。
「俺のやろうとした正義って、結局なんだったんだ? 何の力もなく、現実を変えられなければ……単なる自己満足だったのか」
弱々しく瞼を伏せて、頭を抱える。エレナの死に際の姿が脳裏に焼きついて離れない。彼女は命を賭けて証拠を届けようとしてくれた。その思いすら、俺は完全に守りきれずに失った。ロイドも長年の友情を裏切る形で殿下の側に走り、俺を捕える手伝いをした。
「ロイドは領地を守るためだったんだよな……。それもある意味、“正義”なのかもしれない。けど、俺とは相容れなかった。正義がぶつかり合って、こんなにも惨い結末になるなんて……」
ここ数日で何度も浮かんでは消える思考をまた繰り返す。王太子に逆らって追い詰められているこの現状が、もう俺には耐え難い。もし俺がカトレアを救うなんて軽々しく口にしなければ、ロイドも裏切らずにすんだのかも。
「正義って……こんなにも脆いのか。あの夜会で俺は“正しくないこと”に抗ったつもりだった。でも、結果はどうだ? 正しいことを貫こうとしたら、誰も救えず、エレナも死んで、ロイドも失った」
苛立ちを抑えきれずに、拳を固く握りしめる。廃墟の床には割れたガラスの破片が散っていて、万一転げば怪我をするだろう。そんなことよりも、何も変えられなかった自分への怒りが渦巻き、体が震えた。
「ごめんな……エレナさん、あんたの命だって守れなかった。領地のみんなだって、いま頃どれだけ苦しんでるかわからない。どれ一つ、俺は救えないままだ」
一方でカトレアはこの廃墟の一室で休んでいる。彼女を見捨てずにきたことに悔いはないが、今この段階になって「自分の選んだ道が本当に正しかったのか」と疑問が浮かんでしまうのは避けられない。あまりにも犠牲が大きすぎるから。
「“正義”なんて言葉を口にしてた自分が恥ずかしいよ。身の程知らずに王太子に楯突いて、結局はこんな結末。いいところなんて、一つもない」
胸が痛む。頭を抱え込んで、低くため息をつく。カトレアの寝息が静かに聞こえるだけで、その音が逆に俺の後悔をかき立てる。彼女すらも幸せにできていないのだ。ひたすら逃げ続ける生活を強いてしまった。彼女はぜんぜん悪くないのに……
「……でも、まだ終わりじゃないよな。正義なんてもう崩壊してるかもしれないけど、カトレアを放り出すわけにはいかない。どうしたらいいんだ……?」
沈黙が廃墟の部屋を包む。外の森からは風の音だけが聞こえ、時折鳥が羽ばたく気配が遠くにある。兵士が踏み込んでくる危険は常にあるが、ここで彷徨う思考を止められず、唇を噛みしめるばかりだ。
「俺がやったことは本当に正しかったのか? いや……間違ってたと認めるのは悔しいし、あまりにも多くの犠牲が出た今、元には戻せない。それでも……」
自問自答がどこまでも続く。ならばこれまでの行動を否定して殿下に降伏するのか? そんなことが許されるのか? それは絶対に嫌だ――だが、それならこのまま逃げ回るだけの人生を続けるしかないのか。何も変えられないまま、最後には破滅を迎えるのかもしれない。
「もっと強ければ、もっと権力があれば……王太子の不正を正して、仲間を救うこともできただろうに。俺には何もなかったんだな」
悔しさが胸をかき乱す。指を立ててもう一度拳を握り締めるが、それで何が変わるわけでもない。まるで内側ががらんどうになっているような虚しさを感じる。
「……アレン?」
不意に、背後から聞こえる静かな声。カトレアの声だ。振り返ると、彼女が寝床から顔を上げてこちらを見つめていた。俺は咄嗟に言葉を失い、気まずそうに視線を逸らす。こんなに弱音を吐いている姿を見せたくはなかった。
「ごめん、起こしちゃったか。まだ眠ってていいよ、少しは疲れが取れるといいし」
「いいの。……アレンが苦しそうな顔してるのが気になったから。何かあったの? いや、何もなくてもつらいのはわかるけど……」
「いや、大したことじゃない。ちょっと昔のことを思い返してただけ。ほら、俺、殿下に逆らったせいで……」
「責任感じてるの? あなたはわたしを助けてくれた、それだけで……」
「うん、わかってる。だけど、結果を見てみろよ……いろんなものが壊れちまった。本当にこれで良かったのかなってさ」
カトレアは目を伏せ、言葉を探すように沈黙する。俺が感じてる虚しさ、彼女も共有しているだろう。でも、その唇が震えながら微かに笑みを作るのを見て、胸が痛んだ。
「……わたしも同じこと、何度も考えたわ。でも、あなたの正義を一瞬でも否定したくないの。あの時あなたが声を上げなければ、わたしはずっと殿下に縛られていたかもしれないから」
「殿下に……確かにそうかもしれない。でも、だからって、こんなにも多くの犠牲が出たら俺は……」
「たくさん傷ついたけど、そのせいでわたしたちが一緒にいるのも事実よ。あなたの正義がもう崩壊してると思うなら、わたしが支える」
「支えてくれる……?」
「ええ。ロイドやエレナさんを救えなかったとしても、わたしだけはまだ生きてる。あなたの正義が間違いだったかもしれないとしても、わたしが一緒に考えるわ。どうすればいいかを」
彼女の強い言葉に、胸がほんの少しだけ熱くなる。正義を諦めかけた自分を、彼女は自分の存在で繋ぎ止めようとしている。それが切ないけど、ありがたい。
「……ごめん、変な暗い話をして。ありがとう、カトレア。少し気持ちが楽になったかもしれない」
「ううん、あなたが苦しむのは当然よ。わたしだって不安で夜も眠れないし。でも、朝になればお互い走り出すしかないでしょう?」
「そうだな。まだここで寝てていいよ。今日は警戒が必要だし、夜が明けたらまた逃げ場を考えないといけないし」
カトレアはわずかに頷き、もう一度薄い布を被って目を閉じる。俺は彼女の寝顔を見つめながら、もやもやした罪悪感を抱え続ける。でも、彼女が理解を示してくれたことが救いになるのは間違いない。
こうして廃墟の朝、俺は自分の正義感がもたらした数々の悲劇を振り返り、自分の選択が本当に正しかったのか苦しむ。ロイドとの友情も、エレナの命も、領地の暮らしも、あまりに多くの犠牲を背負ってしまった。にもかかわらず、殿下は未だにのさばっている。
それでも、カトレアがそばにいてくれる限り、折れてはいけないのだろう。自分が何を失おうと、何が間違っていようと、もう一歩は踏み出さないと先へ進めない。やるせなくも、そんな決意だけが俺のなけなしの力だった。




