第25話 廃墟での再会②
薄暗い光を頼りに、俺とカトレアは廃墟の廊下を慎重に歩いていた。天井には大きな穴が空いていて、かつては色鮮やかだったのだろう壁紙も、今では剥がれかけてぼろぼろ。踏みしめる床には埃が積もっており、靴を鳴らすたびに微かな煙が舞い上がる。
「……荒れてるわね。随分と長い間、誰も入っていないのが一目でわかるわ」
カトレアが廊下の壁をそっと触れ、指先に溜まった埃を見下ろす。かつて金箔や鮮やかな装飾が施されていたはずの壁は、いまは無数のひび割れと剥落が目立つばかりだ。屋根から差し込む斜めの光がこの様子を照らし、寂寥感をより一層際立たせている。
「本当に……廃墟って感じだね。家具らしきものは壊れてるし、窓ガラスも割れてるし……。でも、ここが一時的な隠れ家になりそうで助かった」
「ええ、雨風を防げるだけでもありがたいわ。……昔は、まだそれなりに立派だったんだけど」
そう言ってカトレアは廊下の奥へ視線を走らせる。そこには割れかけた鏡のフレームや、半壊したテーブルの脚が転がっていた。床には砕け散った陶器の破片も見える。おそらくは高価な花瓶や食器の一部だったのだろう。
「やっぱり思い出せる? 君が小さかった頃に来たことがあるんだよね?」
「……正確な年齢はあまり覚えていないんだけど、父に連れられてここを訪れたことがあるの。まだ部屋にはきちんと家具が置かれてて、壁には大きな絵画も飾られていたわ。何もかも光っていたし、屋根からこんなに穴が空いてるなんて想像もしなかった」
「そっか……。当時は綺麗な別邸だったんだね」
俺は廊下の壁をそっと撫でてみる。確かに微妙に残っている装飾の名残を見ると、かつてはかなり豪華だったのだろうと想像できる。いまは崩壊の一歩手前で、歩くたびに床が軋んでいるのがわかるけれど。
「父は当時まだ……厳しかったけど、わたしに期待してくれてたかもしれない。ここでいろいろと話をしたのをぼんやり思い出すの。『カトレア、いつか王宮に行くのだから、立派な令嬢にならなくちゃな』って」
「なるほど……その頃は殿下との婚約話もあったのか。君も幼いなりにこの場所で勉強や礼儀を学んだりしてたのかな」
「ええ。でも、それからいろいろあって、この館は手放すことになったって聞いた。だからもうここには来てなかったの。……こうして見ると、本当に何もかも遠い昔の出来事のようだわ」
カトレアの瞳には切なさが混じっている。きっと、まるで失われた過去をまざまざと見せつけられている気分なのだろう。俺は少し言葉を選びながら彼女に問いかける。
「……つらくないか? こんな姿を見るのは。無理してない?」
「平気……って言いたいけど、正直、少し痛いわ。家の象徴みたいな場所がこの有様で。……でも、わたし自身も今はこんなだから、ある意味お似合いよ。もう栄光なんてどこにもないし」
「そんなこと……たしかに状況はボロボロだけど、君自身はまだ折れてない。諦めずにここまで走ってきたじゃないか」
彼女は苦笑しながら廊下の先を指さす。扉が半壊した広い部屋が見え、そこにテーブルやソファの残骸が散らばっている。行ってみると埃で覆われたソファが一つ、かろうじて形を保っているのがわかった。
「ここ、ちょっと座れそうじゃない?」
「埃だらけだけど、まあ腰掛けるには十分かも。……うん、悪くないかもしれない」
「ふふ、そんなこと言うなんて……昔のわたしが聞いたら腰を抜かすかもしれないわ。こんな廃墟の壊れかけソファを喜ぶなんて」
「確かに、王宮で暮らしてた頃の君が聞いたら怒りそうだね。けど……今は生き延びるだけで精一杯ってところだから」
俺はソファの背もたれを軽く叩いて埃を落とし、カトレアをエスコートするように手を差し伸べる。彼女が「あはは」と苦笑しながら腰を下ろすと、意外としっかりした作りらしく崩れはしなかった。
「はあ……これだけでも、ちょっと休めるわ。外で眠るよりずっとマシ」
「そうだな。とりあえず追っ手の足音は聞こえないし、逃げてきた甲斐があったよ。まだ危ないには違いないけど……」
「兵士に見つかったらもう終わりだって分かってる。それでも、一瞬だけでいいから休ませて。わたし、もう足が棒で……」
「もちろん。……俺も疲れた。だが、気が抜けそうになるから交代で見張りをしよう。まだ昼間だし、兵が森を捜索している可能性もあるしね」
カトレアはこくりとうなずき、目を閉じる。ソファに沈み込むようにして、どこか懐かしそうに鼻をすすった。もしかして、この家具に触れたことを覚えているのかもしれない。
「ちょっと前まで、ここで父と座って話をしてたのかも。わたし、まだ小さかったから家具の高さが高く感じて……」
「そっか……父親との思い出、嫌なものばかりじゃなかったんだな」
「ええ、もちろん。わたしが殿下との婚約を嫌がったとき、無理に笑って『おまえが本当に嫌ならやめてもいいんだぞ』って言ってくれたのよ。最終的に家の都合で婚約を続けちゃったけど」
「家の事情か……。やっぱり貴族って大変なんだな」
俺は苦笑しながら室内を見回す。壁には無残に破かれた絵画のキャンバス跡があったり、床のカーペットが虫に食われていたり、無秩序な荒廃が目につく。かつてどれほど華やかだったにせよ、今は誰も管理せず放置された結果がこれかと思うと、二人の現状とも重なって切なくなる。
「わたしの家も、こうしていつの間にか衰退していったのかもしれない。王太子にとって便利な家柄の時は良くしてくれたけど、いまはもう……」
「殿下にとって利用価値がないなら、あっさり切り捨てられるんだよな。悲しいけど、そんな現実がいままさに起きてる」
「ええ。本当に最悪よ。わたしもこの館も、どこにも帰る場所なんてない。……でも、まだあなたが一緒にいてくれる。それだけが救い」
彼女が微苦笑を浮かべて顔を上げる。俺はその姿に胸が温かくなる反面、無力さを思い知る。追っ手がいつ襲来してもおかしくないし、俺たちはまだどうしようもない状態なのに、彼女は微笑むんだ。
「ここに少しの間、身を隠そうか? そうしたら体力を取り戻して、次の手を考えられるし。危険だけど、街へ出るよりはマシだと思う」
「そうね。とりあえず屋根も残ってる部屋を探して、寒さを凌げるようにしよう。雨漏りとか気になるけど、他に当てもないし……」
「気になるところがあれば修繕もできるかもしれない。最悪、崩れそうになったら別の部屋へ移れば……」
「ふふ。まさかこんな廃墟で生活する日が来るなんてね。王太子に逆らった代償は大きすぎるわ」
「俺だって同じさ。田舎で小さな領地をまとめて、平穏に暮らすはずだったのに。いつの間にこんな逃亡生活を送る羽目になったんだか……」
俺たちは互いの境遇を思い返して苦笑し合う。廃墟の廊下からは風が入ってきて寒いが、二人がこうして肩を寄せ合えばまだ耐えられそうだ。万が一追っ手が来れば、すぐに物陰に身を潜めたり逃げたりするしかないが、どこまで耐えられるかはわからない。
「でも、少しはゆっくりできそう。アレン、ありがとう。あなたが見つけてくれたから、わたしも懐かしい思い出を再確認できたわ」
「懐かしい思い出なのに、こんなに壊れちゃっていてごめん。でも……俺が守れるのは、君の思い出じゃなくて“今の君”だから。そう……わかってほしいんだ」
「うん。十分伝わってるわよ、そんなの。……頼もしくなったわね、あなた。最初はぎこちない下級貴族かと思ってたのに」
「はは、言われてみればそうかも。まぁ、いまはそんな余裕ないけど……とにかく二人で生き延びよう、カトレア」
「ええ、一緒に。ここが壊れていても、わたしたちが折れなければまだ大丈夫。……少しでも希望を探すわ」
室内には乾いた木片や壊れた家具が散乱していて、寝床に使えそうなものを掻き分けながら小さなスペースを作る。カトレアが懐かしそうに“この辺りに暖炉があった”なんて話をしてくれるのを聞いて、俺も想像力を働かせる。かつてこの館が豊かだった時代、彼女の家族がここでどんな風に暮らしていたのかと思うと、なんだか物悲しい。
だが、いまはそれでも身を隠す場所があるだけ感謝すべきなのかもしれない。追っ手は森の中を探しているのだろうが、この廃墟を知る者は少ないはずだ。かつてカトレアの父親が所有していたとはいえ、何十年も放置されれば誰も足を踏み入れないだろう。
「よし、とりあえずここで落ち着こう。屋根が抜けてないところを確認して、夜はそこで眠ろう」
「わかった。ありがとう、アレン。わたし、少し探検するわ。壊れそうな床もあるだろうから、気をつけてね」
「もちろん。もし足を滑らせて落ちたりしたら笑えないよ。……よし、暗くなる前にいくつか部屋を回ってみようか」
カトレアが意を決して立ち上がると、前よりも足取りは少しだけ軽い気がした。ここが自分の思い出の場所だと気づいたせいか、ほんの少し元気を取り戻したようだ。俺も負けじと廊下の扉を押し開け、部屋の状態を確認していく。瓦礫だらけでもかまわない、当面の寝床に使えそうな場所を――。
こうして、崩れかけた館の内部を二人で探索し、最低限“身を隠せる部屋”を見つけようと奔走する。かつての繁栄を思わせる名残の装飾と、無残に壊れた壁や家具との対比は何とも切ない。けれども、今の俺たちもまさにそんな状態だ。かつては王太子に庇われる立場だったカトレア、俺も地味ながら領主として平和に暮らすはずだったのに、いまは敗残の逃亡者。
この廃墟と自分たちの境遇が重なって、胸が痛む。でも、そこにある唯一の救いは、やはりこの場にカトレアがいてくれること。再び彼女を失うわけにはいかないと決意しながら、俺は埃まみれの廊下を歩き続ける。




