第25話 廃墟での再会①
朝焼けに染まりはじめる空を仰ぎながら、俺とカトレアはずっと森を縫うように走り続けていた。王都の喧騒から離れ、街道からも逸れて、ひたすら荒れた小径を進む。目的地があるわけじゃない。ただ、追っ手の足音を遠ざけるために走るしかなかった。けれど、足取りは重く、どこへ向かっているかさえわからない不安が胸を押しつぶしそうだ。
「アレン……もうどれくらい走ったかしら。わたしたち、ずっと森の中だけど……兵の気配はまだあるの?」
カトレアが肩を上下させながら、振り返りもせず問いかける。俺は自分の鼓動に耳を傾けつつ、森の奥を見回した。後方の遠くでわずかに聞こえる甲冑の金属音――それが兵の足音かどうかまでは断言できないが、落ち着きは到底得られない。
「少し遠のいたようにも感じるけど、確信はない。……殿下が本気で追跡しているなら、そう簡単に諦めないだろうし」
「そうね。何度も痛い目に遭ってるから、どこで罠が待ってるかもわからないわ。……もう少し森を抜ければ、次の町があるんだっけ?」
「一応、地図では森の外れに小さな町があるはずだけど……行っても歓迎されるとは限らない。手配書が出回ってるし、村人が通報したら厄介になる。まいったな」
そう呟きながら、枯れ葉を踏む足音がやけに大きく感じられる。互いに呼吸も荒いのに、ペースを落とせば兵が追い付いてしまうかもしれない。カトレアの表情に疲労の色が濃く、心配になるが、いま立ち止まるわけにはいかない。
「……でも、もうそろそろ限界かも。ここ数日まともに休んでないもの。アレン、ほんとごめんね。わたし、体力が持たない」
「いいや、こっちだって同じだ。休める場所があるなら寄り道したいけど……うわ」
足をもつれさせそうになりながら、小さな木の根を飛び越える。森の道はほとんど荒れていて、道と呼べるかさえ微妙だ。周囲には背の高い木々が生い茂り、夜のうちに降った霧がまだ地面を湿らせているのがわかる。滑りやすいし、転んだら怪我をするかもしれない。
「ごめん、カトレア、もう少しだけ踏ん張れ。どうにか森を抜ければ――」
「待って、アレン。あそこ……何か見えない?」
カトレアが突然立ち止まり、指先を小高い丘の上方へ向ける。俺も目を凝らすと、木立の隙間から、何やら灰色の石造りらしき物体がちらりと見えた。建物の一部が崩れたようなシルエットが浮かんでいる。
「大きな建物……? こんな森の奥に家があるのか? いや、廃墟かな」
「わからない。でも……昔、わたしの一族が所有していた別邸が、この辺りにあったって聞いたことがある。まさか、それかも」
「カトレアの一族って……レーヴェンシュタイン家の? 本当に? もう使われてないんだよな?」
「ええ、ずっと昔に売却されたとか、放置されたとか、噂があったの。記憶があいまいだけど……こんなに近い場所にあるとは思わなかった。とにかく、行ってみましょう」
彼女が興味と不安の入り混じった眼差しで先を促す。もし廃墟なら人目につかないかもしれないし、追っ手の目をかわせる可能性もある。俺も頷き、足元に注意しながら斜面を登る。すると、枝葉の先に灰色の壁が姿を現し、大きな門らしきものが朽ち果てた状態で横たわっていた。
「うわ……本当に廃墟だね。壁の半分が崩れてるし、門も壊れてる。誰も住んでない雰囲気がヒシヒシと伝わってくる」
「これ……わたしの家のものかしら。もう、形が崩れてるし、でもなんだか懐かしいような……怖いような……」
「入り口はどこだろう。ここから通るのは危険そうだし、裏手に回れそうな道を探してみよう」
彼女の不安げな言葉を受けながら、俺は壁の周囲を探って裏手へ回る。ところどころに大きな石が積まれていて、かつては立派な門だった形跡が見て取れる。枯れ草を踏み越え、倒れかけた木の枝をかき分けて、どうにか中に入れそうな崩れた隙間を見つけた。
「こっちなら、入れそうだよ。カトレア、気をつけて。瓦礫が邪魔してるから足を滑らせるなよ」
「ありがとう、わたし、ドレスを引っかけないようにしないと……」
軽くドレスの裾を持ち上げて、彼女は慎重に腰をかがめながら隙間を抜けていく。俺も後に続き、ぽっかり開けた庭のようなスペースへ足を踏み入れた。かつては立派な中庭だったらしく、中央に枯れた噴水の残骸が横たわっている。
「昔はここで花が咲いていたのかしら。わたし、幼い頃の記憶で、庭を走り回った記憶がかすかにあるような……」
「へえ……少しずつ思い出してきたのかな? ここなら追っ手も簡単には来られないだろう。なんとか隠れられるかも」
視線を奥へ向けると、かつての大きな館らしい建物がそびえている。ただし、その外壁の一部は崩れていて、窓が割れたまま放置され、屋根にも穴が空いた痕跡がありそうだ。何十年も手入れされずに放置されたため、廃墟同然だというのが伝わってくる。
「この館……入れる部分はあるかしら。中が完全に崩れてるなら危ないわね」
「そうだな。でも、夜風を凌げる部屋だけでも見つけられたら御の字だよ。兵の足音も気になるし、まずはここの中を確認しよう」
「……わかった。ああ、でも、なんだか胸がざわつく。ここ、本当にわたしの家だったかもしれないから」
カトレアが不安げに呟き、何か遠い昔を思い出しかけているような表情をする。幼い頃に来たことがあるのか、それとも家の事情であまり寄り付かずに記憶があいまいなのか。いずれにしても、俺たちにとっては今が正念場だ。少なくとも夜を越すまでの隠れ場所がほしい。
「兵士がすぐ後ろまで来てる気配は今のところない。でも、ここで休むなら中の様子を確認しないと危険だ。瓦礫に足を取られる可能性もあるし、刺客が先に待ち伏せなんて可能性もある」
「刺客……もう嫌よ。でも、仕方ないわね。二人で注意深く見るしかないわ」
「うん。じゃあ、手分けは危ないから一緒に回ろう。入口は……そこかな。扉は外れてるみたいだけど、入れるかもしれない」
崩れた柱の隙間を抜けると、広々とした廊下がかつてあったことがうかがえるスペースに出る。石畳がひび割れ、所々に雑草が生えていた。かつての豪華な装飾の破片らしきものが床に散乱しているのを見て、カトレアが眉を寄せる。
「ここ……昔は金色のランプが並んでた場所だと思う。ほら、この欠片……ランプの飾りだったかもしれないの」
「君の家が持ってたなんて……ほんと、相当な財力があったんだな。いまはこんなに荒れ果ててるのに」
「レーヴェンシュタイン家も一度没落しかけたことがあったし、その頃手放したのかもしれないわ。まさかこんな形で戻ってくるなんて思わなかった」
彼女の声がどこか複雑な感情を帯びている。懐かしさ、悲しさ、あるいは幼少期の記憶への儚い想い――こんなに荒れ果てた場所を目の当たりにして、正直胸が痛むだろう。それでも、彼女の手はほんの少し震えているだけで、逃げ出さずに踏みとどまっているのがわかる。
「……でも、ここなら当面の隠れ家に使えるかもしれない。兵がわざわざこんな廃墟をくまなく探すとは思えないし。危険はあっても街に出るよりはマシだ」
「ええ、そうね。修繕して休める部屋があれば、少しでも眠れるかもしれない。わたし、正直……疲れすぎてて気が遠くなりそう」
「了解。じゃあ、さっそく探索しよう。どこか一つ部屋が intact で残っていればラッキーってところか」
「うん……あ、ありがとう、アレン。あなたがいてくれるから、不安でも逃げずに済む」
カトレアがふと微笑む。その笑顔はいつもの高貴な彼女を思い出させるが、彼女は今まさに逃亡の果ての姿。ドレスは汚れ、髪は乱れて、肩には疲労がのしかかっている。俺はそんな彼女を守りきれずにきた無力さを痛感するけれど、それでも彼女がこうして微笑むことが救いに感じられた。
「言うなって、俺も君がいなかったら今頃心が折れてた。……こんな状況だけど、俺たち二人ならまだ何とかなるはずだ」
「そう……そうだと信じたい。わたしも今は、あなたへの想いだけが心の支えなの。ほかは全部灰になったような気持ちだから」
その言葉に胸が熱くなる。確かに、エレナの死とロイドの裏切り、そして殿下の包囲網。いくつもの希望が灰と化した今、二人の絆こそが唯一の綱であるのは否定できない。カトレアは頬を薄く染め、恥じらうように目を逸らすが、その手はしっかりと俺の袖を掴んでいた。
「いいんだ、それで。お互いに頼り合って生き延びよう。……早く、この森を抜けた後のことも考えないとな」
「そうね。まずは朝までこの廃墟で落ち着ける場所を探して、また作戦を考えましょう。兵士がいつ来てもおかしくないし……」
「うん、わかった。……よし、行こう」
少しだけ気合いを入れ直して、俺たちは館のさらに奥へ足を進める。廊下は薄暗く、崩れた柱や落ちた天井の残骸が散乱しているが、ここが一度は豪奢な別邸だったのだと想像できる名残も少しある。カトレアがその一つひとつに切なそうな眼差しを向ける姿を見て、俺はそっと彼女の手を握る。
「……ありがとうね、アレン。こんな状況でも、一緒に歩いてくれて」
「こちらこそ。君がいてくれるから、諦めずに済んでる。ほら、先に進んでみよう。大きなホールみたいな場所があれば、そこに陣を張れるかもしれない」
「うん。……でも、変な動物とか魔物が出ないといいわね」
「いや、魔物は出ないはずだけど……動物やネズミは出るかも。気をつけよう」
俺たちはささやかな笑いを交わすが、背後からは依然として追っ手の足音がいつ近づくか分からないという恐怖がこびりついている。それでも、この瞬間だけは二人きりの時間をかみしめるように歩く。追い詰められた状況だからこそ、互いの存在がなによりも心強い。
「……大丈夫。おまえがいれば、まだ歩ける」
「わたしも……あなたの手が温かいから、もう少し頑張れそう」
廃墟の内側へと進みつつ、俺たちは改めて“二人の想い”が唯一の救いだと感じていた。かつては夜会で出会い、王太子に逆らい、逃げ続けてきた果てにこの廃墟へ辿り着いた――道中で失ったものは多いが、この絆だけは本物だ。夜の森に包まれた別邸の廃墟で、当面の居場所を見つけるまで、互いへの想いにすがるように足を進める。
こうして、死に物狂いの逃亡と絶望の中でも、俺とカトレアの絆が唯一の希望として光り続ける。暗い廃墟の内部で確かな温もりを再確認しながら、どこかに安息の部屋があることを願い、前へと歩き出すのだった。




