第3話 公衆の面前での対立①
あの場違いな静寂の中で、王太子リシャール殿下と俺は向かい合っていた。華やかだった夜会の雰囲気は、もうどこにも残っていない。変わりに張り詰めた空気だけが二人の間を満たしている。
「身の程をわきまえろ――下級貴族の分際で、よくも我に楯突いたな」
リシャール殿下の低い声音が広間に響くと、周囲からヒソヒソと息を呑む音が聞こえた。実際、俺だって内心は恐怖でいっぱいだ。けれど、ここで引き下がれば、ただ「小物が無謀に叫んで終わった」という笑い話になるだけだ。
「……身の程をわきまえるべきは、そちらかもしれません」
自分でも呆れるほど大胆な言葉が口をついて出た。こんな場で、こんなセリフを言うなんて、正気じゃないと思う。けれど、目の前でこのまま黙っていたら、自分の良心を見失う気がした。
「なんだと?」
殿下の目が鋭さを増す。まるで隙を見せたらその一瞬で首を斬り落とされそうな威圧感だ。周囲の貴族たちも「やばいぞ……」「あの青年、次は確実に処分される……」と囁く。そんな中で、俺はどうにか声を震わせないように耐える。
「どんな理由があったにせよ、こうした皆の前で、さっきのようなやり方は無礼というものではありませんか。人を恥じ入らせるなら――いえ、たとえ失礼があったとしても、きちんと話し合いの場を設けるべきでしょう。あれでは、ただ一方的に相手を貶めただけのように見えます」
「貴様……!」
わずかに聞こえる篭った息遣いに、殿下の怒りが滲む。危険だ。ここで逃げ出すなら今のうちだが、俺は一歩も下がらなかった。背筋に寒気が走るが、心は不思議と静かだ。きっと、この場で黙り込むことのほうが、後悔を生むとわかっているからだ。
「殿下に歯向かって、どうなるか想像もできないのか……?」
「正気とは思えないわ……あの男爵家の坊ちゃん、頭でも打った?」
周囲の囁きが増していく。貴族たちは皆、王太子の逆鱗に触れることを恐れ、誰も助け舟を出してくれそうにない。ロイドという名の伯爵がそっと視線を送ってくるが、声をかける様子はない――関わるのは避けたいのだろう。
殿下はゆっくりと近づいてきて、俺の目の前で足を止める。そのまま強烈な視線で睨みつけられると、思わず息が詰まりそうだ。
「……貴様、何様のつもりだ。アレン・クレストンとか言ったな。下級貴族が何を吠えようと、この国を動かすのは我だ。口を閉じねば、命はないぞ」
「それでも……今回のやり方に、俺は納得できない。カトレア様の事情を一切聞かず、ただ恥をかかせるのは、あまりにも……」
そこまで言いかけて、言葉が詰まった。俺のすぐ隣――少し後ろのほうで、黒いドレスを身に纏ったカトレアが静かに息をしているのがわかる。彼女は言い争いには一切加わらず、ただこちらをちらりと見ていた。周りの嘲笑にも、王太子の恫喝にも、表情を崩さずに耐えている姿を見て、改めて悔しさが込み上げる。
「……あなたは、あくまで私を庇うつもりなの?」
ふいに、小さな声が俺の背後から届いた。カトレアだ。かすれたトーンで、まるで吐息のような囁き。だけど、しっかりと俺に問いかけている。俺は首だけ振り返って、なるべく柔らかな表情をつくろうとする。
「庇うというか……ただ、正しくないことには反論したいだけです」
「……そう」
彼女の瞳は揺れていた。驚き、戸惑い、そしてどこかで小さな感謝――そんな感情が交錯しているようにも見える。王太子リシャール殿下と直接やり合う勇気を持つ男がいるなんて、思いもよらなかったのかもしれない。もちろん、俺だって自分の行動が常軌を逸しているのはわかっている。
「ふん。いいだろう。それほどまでに言うなら、聞かせてもらおうか。おまえの“正しさ”とやらを」
リシャール殿下が腕を組み、挑戦的な笑みを浮かべる。まるで「どう足掻こうが、無駄だぞ」と言わんばかりの威圧感だ。周囲も完全に息をのんで成り行きを見守っている。
「正しさというより……殿下、仮にも婚約者として迎えていた方を、こんなふうに晒し者にするのは、あまりにも配慮がないのではありませんか。個人的な怒りがあるなら、まずは本人と話し合って……」
「黙れ。貴様ごときが我らの事情を知った風に口出しするな」
「それは、確かにそうかもしれません。けれど、これではカトレア様が一方的に貶められ、周囲からも嘲笑されるだけです。もし殿下が本当に正当な理由をお持ちなら、しかるべき場で弁明と証拠を示すべきではないでしょうか」
心臓が壊れそうなほど高鳴っているが、言葉は止まらない。殿下の怖さは十分に感じているが、ここで引くわけにはいかない。周りの貴族たちが「馬鹿だ」「無謀すぎる」と呆れ混じりの声を上げるが、俺は耳を貸さない。自分で始めたことだ。
「……くだらん。アレン・クレストンだと? よく覚えておこう。おまえのような愚か者がどうなるか、すぐにわかるさ」
まるで宣告するような口調でリシャール殿下が言い放つと、広間のあちこちから震えが起きる。殿下の逆鱗に触れた者が無事で済むはずがない――周囲はそう確信しているのだ。
「ひそひそ……あの男、アレンとか言ったかしら、絶対あとで処分されるわ……」
「下級貴族なのに、自分から地獄へ飛び込んでいくとは」
耳に痛いほど突き刺さる囁きに、俺は苦笑を漏らしそうになる。たしかにその通りだ。家には大切な領地があり、そこに住む人々がいる。自分が無事でないと、彼らを守れない。こんな無茶をすれば、領地に報復が及ぶかもしれないのに……それでも、ここで目を背けるくらいなら、最初から正義なんて気取るべきじゃないと思う。
「……覚悟は、しておきます」
そう呟いて殿下を見据えた。その瞳は暗い炎を宿し、俺を睨んでいる。いっそ命を奪われそうな嫌な気配だが、逃げ腰は見せたくない。
「貴様……まあいい。今は夜会の席だ。場を荒らすつもりはない。が、貴様の暴言、決して忘れんぞ」
リシャール殿下は最後に冷たい視線をカトレアへ投げかけ、踵を返した。広間を後にする足音が、やけに耳に残る。去り際に放った「後悔するぞ」という囁きが、まるで死刑宣告のように聞こえた。
「はあ……やってしまった」
重苦しい沈黙が広間を覆う中、俺は力が抜けたように小さく息を吐く。立ち止まりつつも、今にも崩れそうだ。殿下の絶対的な威圧感を正面から受けるなんて、人生で初めての経験だ。体は強張り、心臓は爆発しそうなほど鼓動が早い。
「……あなたは本当に、馬鹿ですね」
か弱い声が聞こえ、振り向くとそこにはカトレアがじっと立っていた。相変わらず気高い姿勢を保ちながらも、その瞳にはかすかな揺らぎが宿っている。
「かもしれません。でも……こうするしかないと思いました」
「ふふ……私のために? それとも、あなたの“正義”のため?」
問いかける声は淡々としているが、わずかに頬を緩めているようにも見える。俺はどう答えればいいかわからず、言葉に詰まった。ただ、一つ言えるのは、このまま彼女が辱められるのを見過ごすのは耐えられなかった――ということだけだ。
「まあ……ありがとうございます。おかげで少し気が晴れたわ」
「そ、そうですか……」
何を言っていいのか戸惑いつつ、一応は役に立てたのだろうかと安堵する。もっとも、これから待ち受ける危険は計り知れない。そんな俺の様子を見たカトレアは、わずかに苦笑しながらも、すぐに表情を引き締めた。
周囲はまたざわざわと動き出し、俺とカトレアのそばには近寄ろうとしない者ばかり。さっきまでの音楽や踊りの華やぎなどは消え、重々しい空気だけが漂っている。そうして、俺たちは再び視線を交わした。この瞬間、俺と彼女の運命はもう後戻りできない場所へ踏み込んだのかもしれない。そんな予感が、胸を締めつけるのだった。




