第24話 王太子の包囲網①
夜明け前、まだ暗い空気が街を覆っている時間帯。俺とカトレアは人目を避けるように裏路地を歩いていた。エレナを失った絶望は深く、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気がする。どこへ行っても残るのは虚しさと疲労だけだ。けれど、ここで立ち止まれば殿下の兵や刺客の餌食になるのは目に見えている。少しでも先へ進むしかない。
「……アレン、あれ見て」
カトレアが硬い声で呼びかけ、指さす先に目を向ける。町角の壁に、一枚の手配書らしき紙が貼ってある。白黒の粗い印刷だが、見慣れた名前が記されているのがはっきり読めた。
「何だよ、これ……! “エレナ殺害犯として、アレン・クレストンとカトレア・レーヴェンシュタインを指名手配”……!?」
「そんな……わたしたちがエレナを殺したなんて、まったくの逆じゃない……!」
カトレアがわなわなと震える。俺も頭が真っ白になる。エレナを実際に殺したのは殿下の刺客だというのに、手配書では俺たちがエレナの命を奪った“極悪な国賊”と書き立てられている。あまりに都合が良すぎる裏返しに唖然とするばかりだ。
「くそ……殿下が今度はこういう手に出てきたのか。エレナさんを殺したのは俺たちだって、世間に嘘を吹き込むつもりだな」
「ひどい……あの人はわたしたちを守るために命を賭けてくれたのに、こんな形で利用されるだなんて!」
カトレアが膝をつきそうになるのを、俺は慌てて支える。彼女の顔は蒼白で、手がひどく冷えているのがわかる。深夜の暗い路地には、その手配書以外にも何枚か同じような紙が散見される。リシャールが情報操作して、すぐにでも世間を俺たちの敵へ変えようとしているのがまざまざと伝わってくる。
「エレナさんの死を、あいつらが嘘の材料に使ってる……なんて卑劣な奴らなんだ、リシャールは!」
「……わたし、もうショックで立っていられない……ほんとに、どこまでもやるのね、あの男は」
カトレアが顔をゆがめて手配書を睨む。そこには大きく“極悪人”と書かれ、“友人を手にかけた凶悪犯”などの誹謗文が躍っているのが見えた。最後に押された王家の印章が、まるで正統な証拠を主張するかのように人々を欺こうとしている。
「……いいか、ここで絶望してたら、本当にあいつらの思い通りだ。確かに文書も失った。エレナさんも殺された。でも、殿下に屈するわけにはいかない」
「でも、この手配書が町じゅうに貼られたら、みんなわたしたちを殺人犯だと思い込むわ。エレナさんを知ってる人も、殿下の威光には逆らえないでしょうし……」
「そうだ。俺たちは完璧に追いつめられたかもしれない。でも、カトレア……ここで立ち止まってしまったら、エレナさんの命が完全に踏みにじられることになる」
「うっ……わかってる。でもどうして……こんなにも苦しい状況ばかり。文書が焼かれて、エレナさんも死んで、今度はわたしたちが彼女を殺したって……」
カトレアが涙声を帯び、手配書をビリリと破り捨てる。だが、そんな行為をしても大勢に影響はない。街の別の角にも同じものが貼られているだろう。リシャールは執拗に世論を操り、“殿下に逆らう者こそが悪”という構図を作り出している。
「くそ……リシャールの包囲網がどんどん狭まってる。兵に追われるだけじゃなく、市民にも“あいつらは殺人鬼だ”と疑われるだろう。誰も助けてくれなくなる」
「それどころか、わたしたちを見かけたら報告する人が出るかもしれないわね。懸賞金をかけられたら、そのほうが得だって思う人もいるだろうし……」
「最悪だ。もう国じゅうが俺たちの敵になりかねない。どうすりゃいいんだよ……!」
苛立ちを抑えきれず、拳で壁を殴る。石造りの壁が冷たくて、痛みがじんわりと広がるが、この苦しみは心の痛みに比べたら大したことがない。カトレアは倒れ込む寸前でこらえ、目を伏せる。
「もう……エレナさんまで利用されるなんて。わたし、リシャールを絶対に許せない。どこまでも外道だわ。こうやってわたしたちを貶めるなんて……」
「わかってる。殿下のやり方は卑劣すぎる。だが、今は怒りだけではどうにもならない。現実問題として、世間はもう俺たちを“友を殺した極悪人”と認識し始めるんだ」
「じゃあどうしろっていうの……ここまで徹底して人を欺くなんて、もう……」
「カトレア……踏ん張ろう。もう一度言うけど、ここで負けたら本当に何もかも殿下の思い通りになる。あいつはエレナさんの死を利用して、社会からわたしたちを完全に葬りたいんだ」
「それは……わかってる。でも、方法が見えないのよ。文書も失われて、エレナさんだってもう……」
涙が溢れそうな表情をぐっとこらえるカトレアを見て、俺も胸が締めつけられる。あまりにも何もかもを失ってきたのに、さらに追い討ちをかけるように殿下が世論まで操作してくるなんて。もはや絶望の底だが、それでも進み続けるしかない。
「くそ……せめて何か裏付けになる証拠が残ってればいいのに。わたしたちがエレナさんを殺したなんて根も葉もない嘘を示す方法が……」
「そうね、エレナさんが本当にわたしたちを助けようとしていた証拠すら、全部燃やされてしまった。わたしたちが『違う!』と叫んでも誰も信じるわけがないわ」
「それでも、ここで負けるわけにはいかない。あいつを許せないし、すべてを殿下の都合で終わらせたくないんだ……」
「アレン……あなた……もう疲れてるはずなのに、そんな根性どこから出てくるのよ」
カトレアが少し驚いたように俺を見つめる。正直、体力も精神力も限界だ。だが、エレナが最期にくれた言葉――「あなた方が生き延びてほしい」という願いが胸に焼きついて離れない。
「エレナさんが命を懸けて動いたのは、殿下を正そうとしたからだろう。少なくとも俺たちはそれを裏切りたくない。憎いけど、まだ……諦めない」
「わたしもそう思いたい……けど、いまとなっては本当にわたしたちにできることがあるのかしら」
「……見つけるしかないよ。どんなに些細でも、殿下の包囲網に穴を開ける方法を探すんだ。誰も信用できない世界だけど、まだ全部が敵になったわけじゃないはず」
「もし、まだ……仲間がいるなら、いいんだけど。ロイドは裏切ったし、エレナさんは死んだ。残ってるのは、もう……わたしたちだけ」
そう言った途端、カトレアの瞳が潤みかけたのを感じる。けれど、彼女は歯を食いしばって耐える。俺も同じだ。泣いて立ち止まるには、状況があまりにも酷すぎて、逃亡の手を緩めるわけにいかない。
「そうだな……結局、二人っきりになってしまった。だけど、死んだ仲間を無駄にしたくないなら、俺たちは何とか突破口を見つけなくては」
「ええ……そうね。わたしはもう絶望だらけだけど、ここで止まったらあの人たちが浮かばれない。……わたしたち、なんとか生き延びて闘い続けましょう」
「うん……リシャールがどれだけ包囲網を敷いても、必ず抜け出す手立てはあるはずだ。簡単に見つからないように気をつけるしかない」
そう言い合い、二人で手配書を見下ろす。そこには俺たちへの誹謗中傷がびっしり書かれていて、エレナを殺害した犯人と指定されている。殿下の封印したい事実はこうやって上塗りされ、国中が俺たちを憎む流れが出来上がろうとしている……まるで、全世界を敵に回したような孤独感に包まれても仕方ない。
「アレン、立ち去りましょう。これ以上ここに居たら、誰かがわたしたちを見かけるかもしれない。もし通報されでもしたら……」
「そうだ。人目がある通りから離れよう。裏道を辿って、少しでも安全な場所を探す……まだ逃げ続けるしかない」
「……逃げるのも辛いけど、殿下が手放すわけないものね。今、わたしたちが捕まれば本当に“エレナの殺害犯”として裁かれて終わるわ」
「嘘の罪で断罪されるなんて真っ平ごめんだ。絶対にそんな未来、認めるものか」
カトレアが微かにうなずき、頬を拭って立ち上がる。俺も気持ちを振り切るように拳を握りしめた。かつて信じていた王都が、こんな地獄になるなんて想像もしていなかったが、もう嘆いている暇はない。包囲網を破るために必死にもがいてやるしかない。
「行こう、カトレア。国中が俺たちを敵とみなしても、まだ完全に終わったわけじゃない。あの夜会でおかしいと思った正義を貫くんだ」
「ええ、わたしも戦うわ。すべてを失ったけど、それでも殿下を野放しにはできない。どうにか反撃のチャンスを掴むのよ」
「わかった。……ここを去ろう。こんな手配書が貼られてる場所に長居は危険だ。次の行き先を探そう」
そう宣言して、俺たちはその場を後にする。遠くから聞こえる人々の囁きは、「エレナを殺したのはあいつらしい」「国賊は最悪の裏切り者だ」というものに違いない。心を刺す痛みは計り知れないが、歯を食いしばるしかない。
こうしてリシャールの情報操作により、国中が俺たちを敵視し始めた。エレナを殺した真犯人は殿下の側なのに、今は俺たちがその濡れ衣を着せられている。――しかし、あきらめない。仲間を失っても、道を見失っても、カトレアと俺はまだ生きている限り足掻き続ける。
黒々とした恐怖と怒りが混在する夜明け前の王都を歩きながら、俺たちは“世界が完全に敵になる”という絶望を現実として受け止め始める。けれど、このまま破滅して終わりたくはない。たとえエレナの死が利用されても、その嘘を暴くために、俺たちは呼吸を続けている――そう信じるしかなかった。




