第23話 友の死と絶望③
暗い夜の街角で、残酷な戦いの爪痕を残したまま刺客たちは去っていった。静寂が戻るはずの場所なのに、胸には痛々しい轟音が鳴り響いているような錯覚すら覚える。あの書類――エレナが命を賭けて手に入れた“最後の希望”は、先ほど無惨にも炎に包まれ、この世から消え去ってしまった。
俺はカトレアとともに、倒れ伏しているエレナのもとへ駆け寄る。仰向けに横たわる彼女の姿は、さっきよりさらに血の気が失せ、肌の色がまるで蝋のように白く見える。歩み寄って支えるまでもなく、彼女の体は薄っすらと震えて、呼吸がままならない状態だとわかった。
「エレナさん……聞こえますか、エレナさん!」
声をかけるが、返事はない。かすかにかすれた息が漏れるだけ。カトレアがその手を握りしめ、必死に声をかける。
「お願い……返事をして! わたしたち、あなたを助けたいの。まだ死なないで!」
「ごめん、エレナさん……何も守れなかった。あんたが必死で運んできてくれた証拠も、助ける命すら、俺はどちらも守れなかった……!」
自責の言葉が止まらない。逃げ回るだけで、あんなにも大切だった文書を燃やされ、そしてエレナの命まで奪われようとしている。一体何のために走り続けていたのかと、自分を殴りつけたいほどの無力感だ。
「アレン……わたしも……悔しいわ。エレナさんがわたしたちに、こんなに命を懸けて力を貸してくれたのに……!」
「ほんとに……ほんとにごめん、エレナさん。殿下に一矢報いるチャンスがあったのに、全部失ってしまった……!」
カトレアがエレナの額に手を当て、濡れ布で血を拭う。それでも痛々しい出血は止まりそうにない。微かに開いていた瞳が震え、エレナは潤んだ目を必死でこちらへ向ける。かすれた呼吸の合間に、か細い声が零れ落ちた。
「……アレン様、カトレア様……」
「エレナさん……! しっかりして。傷が深いから、いま止血を……!」
慌てる俺たちを、エレナは浅い呼吸のまま制するように、かすかに首を振る。もう自分の命が長くないと悟っているのだろうか。震える唇から、一音ずつ力を振り絞るような言葉が紡がれる。
「ごめんなさい……わたし……守れなくて……こんなことになるなんて……」
「そんな、謝らないで。守れなかったのは、俺たちだ。あんたの勇気を何ひとつ活かせなかったのは、俺たちのせいで……」
「命をかけたあなたに、わたしたちは恩返しもできないなんて……! どうして、こんな……」
エレナはその言葉を聞きながら、まぶたを上下させ、うっすらとした意識で最後の思いを形にしようとしている。カトレアが泣きそうになりながら顔を寄せると、エレナの唇が小さく震え、何か伝えようとするのがわかる。
「あなたたちが……助けようとしてくれた……感謝してるわ……。こんなわたしでも……誰かの役に立てる……って思えたの……」
「エレナさん……! そんな……あなたは、あなたは本当に勇敢で、わたしたちこそ感謝してるんです。だから、死なないでください……!」
「ううん……いいの……。わたしはもう……あなた方が……この世界で……幸せに……生きて……」
カトレアの瞳から涙がこぼれ落ちる。エレナの呼吸は乱れ、声も消え入りそうなほど弱々しい。それでも彼女は最後の力を振り絞って微笑もうとしているみたいだった。俺は胸が苦しくなって言葉にならない声を漏らす。
「お願い、エレナさん……もう少しだけ頑張って。医者を探して……あんたを助けられる方法を……!」
「ありがとう……わたしのために……泣いてくれるなんて……嬉しい……わ……」
その瞬間、エレナの体から力が抜ける。瞳は遠くを見つめるように開いたまま、呼吸も完全に止まっているように見えた。胸に手を当てても鼓動の気配は感じられない。
「エレナさん……? ねえ、返事をしてよ……エレナさんっ!」
「だめ……死んじゃいや……っ!」
カトレアが嗚咽を漏らしながら必死に呼びかける。俺も信じたくなくて、彼女の手を握り続けるが、その温もりは急速に消えかけている。まるで硬い氷に触れているような冷たさがじわじわと広がっていく。
「嘘だ……嘘だろ、エレナさん……あんなに頑張って文書を運んできてくれたのに、こんなところで死んで、報われないなんて……」
「文書だって、燃やされて……エレナさんだって……っ!」
カトレアの声が震え、涙がぽろぽろと床に滴る。俺も目頭が熱くて、正直泣き叫びたい気分だ。だけど、彼女を抱き寄せるようにしながら、エレナの静かすぎる姿を見つめるしかできない。
「ごめんなさい……ごめんなさい、エレナさん……。あなたが人生を懸けて届けてくれた“希望”すら、守れなくて……」
大切なものをまた失ったという実感。文書も失われ、エレナの命までもがこの夜に奪われた。胸が張り裂けそうなほど苦しく、もう目の前が真っ白になる。殿下への怒りと、ロイドへの悲しみと、刺客に対する憎悪がぐちゃぐちゃに混ざり合って、思考が止まっていく感覚があった。
「アレン……どうしよう……わたしたち、もうすべてを失ってしまった。エレナさんまで……」
「わかってる……わかってるけど……どうすればいいんだ、こんなの……」
カトレアを抱きしめながら、俺は歯を食いしばる。文書がない今、殿下を追い詰める手段もない。エレナももう戻らない。せめて、彼女の最期の言葉に報いることができればいいのに、それすら現時点では不可能に思える。
「エレナさんが願っていた……“わたしたちが幸せになること”。そんなの、どうやって実現するの? 王太子の追っ手がいて、ロイドも敵に回って、文書もなくて……」
「……わからない。何もわからない。希望の象徴だったエレナさんが、こんな目に遭って、もうどうしろって言うんだよ……」
途切れ途切れの言葉が、重苦しく路地の暗闇に吸い込まれていく。遠くで兵士の足音が聞こえる気がするが、それすらどうでもよくなるほどの喪失感に襲われていた。
「アレン、逃げなきゃ……でも、わたし、もう……力が入らないわ。こんな状態で、どうやって立ち上がれっていうの……?」
「逃げても、殿下に捏造されて終わりだ。抵抗しても、文書がないんじゃ証拠も示せない……なんなんだよ、これ……」
世界が崩れ去ったような絶望感。エレナの冷たくなった体を抱き、俺は膝をついたまま動けない。カトレアのすすり泣く声が耳に響き、さらに心を締めつける。
「エレナさん……あなた、最後までわたしたちを助けようとしてくれたのに、報われなくて……ごめんなさい……」
「……っ! 許してくれ、エレナさん、こんなにも俺たちは……弱かった。守れなくて……」
言葉を紡ぐたびに、心が空洞になっていく。エレナの最期を見届けても、立ち上がる気力が湧かない。もう何をやっても駄目だ――頭の片隅で諦めの声が囁く。まるで、全身が鉛のように重くて身動きできないような感覚に陥る。
「……アレン、どうするの……兵が来たら、本当に終わりよ。ここで死を待つの……?」
「いや……わかってる……でも……」
カトレアの言葉にも力がない。彼女が寄り添ってくれているのが唯一の救いだが、それでも文書が焼かれ、エレナが息絶えたという現実の重みを跳ね返す術は見つからない。夢ならばどれほどいいかと嘆きたくなる。
「エレナさん……もう一度、息を吹き返してほしい……」
無言が続く。エレナは目を開かず、すべてが終わったかのように静かだ。まるで深い眠りに落ちているように見えるが、確実に息は途絶えている。命という灯火が消えかけた時でさえ、笑顔を作ろうとした彼女の姿が瞼に焼きついて離れない。
「……行くわよ、アレン。こんな姿をエレナさんに見せてたら、きっと悲しむわ。わたしも、もう何もかも諦めたい気持ちだけど……」
「わかってる……でも、少しだけ……あと少しだけでいい……」
カトレアが細い指で俺の肩を叩く。その力も弱々しくて、すがりつくような感触だ。お互い限界なのは間違いない。でも、この場に留まれば兵士の餌食になるだけ。
「エレナさんが残してくれた最後の気持ちを……無駄にはできない。わたしたちが幸せになることを祈って死んだのよ。こんなところで終われないわ」
「そうだな……彼女の死を見捨てるわけにはいかない。でも、俺たちがやるべきことは……もう何が残ってるんだ……」
「わからない。でも、殿下のやりたい放題には絶対にさせない。エレナさんがそれを望んだはずよ」
「……ああ。わかった、行こう。ここにいても何も生まれない」
意を決し、俺はカトレアの手を掴んで立ち上がる。エレナの体をもう一度抱く力がないのが情けないが、せめて彼女の最期を無駄にしないと決めるしかない。俺たちは膝を震わせながら一歩踏み出し、闇の奥へと歩を進める。
「エレナさん……ありがとな。守れなくて、本当にごめん……」
かすかな言葉をつぶやき、カトレアとともにエレナの体をそっと離す。兵士の足音がすぐそこまで迫っているかもしれないが、この絶望感の中、行くあても限られている。それでも二人して意地を見せるしかない。
「アレン……わたし、もうこの世界が嫌になりそう。でも……それでも進むわ。エレナさんが望んでくれたんだもの」
「……俺もだ。どんな地獄になっても、殿下の好きにはさせない。エレナさんを失ったこの怒りと絶望を、あいつらに返さないと」
夜の冷たい風が俺たちを冷やす。涙がにじむのを感じながら、カトレアを支えて再び走り出した。地面に置かれたエレナの遺体は、もう動かず静かに眠り、二度と目を開くことはないだろう。苦しみは激しいが、逃げないと共に捕まって全滅するだけだ。
「エレナさん……さよなら。あなたが残してくれた思い、絶対に無駄にしない……」
そう誓っても、現実は残酷だった。文書も失われた今、手の打ちようがあるのかすらわからない。まるで世界が崩れたかのような絶望を抱いたまま、俺たちは闇の路地を駆け抜ける。二人だけが取り残され、最後の光すら砕かれた世界の中で――生き延びることをただ無我夢中で求め続けるしかなかった。




