第22話 希望の証拠①
夜の路地を抜け出してどれくらい歩いただろう。逃亡の疲れが全身にまとわりつき、足取りが重く感じる。カトレアも疲弊は隠せないようで、ドレスの裾を掴みながら必死に呼吸を整えている。とにかく王太子の兵に見つからないよう、裏通りを選びながら先へ進むしかなかった。
「ごめん、カトレア……もう少しだけ頑張って。あとで安全な場所を見つけたら、そこで休もう」
「ううん、わたしこそ……ごめん、足を引っ張ってるわけじゃないけど、やっぱりキツいわね。もう何時間も……」
彼女が息を切らせてそう言うのも当然だろう。俺も腰が痛くなってきているが、ここで立ち止まればあっという間に兵士に追いつかれてしまう。半ば本能的に深夜の裏路地を彷徨いながら、どうにか耐えている状態だ。
「……待って、足音がする」
ふと、耳を澄ますと少し前方から乾いた靴音が近づいてくるのがわかる。カトレアも緊張した様子で視線を前方へ向けた。もしまた兵士が巡回しているのなら、そっと脇道に隠れるしかない。反逆者の手配書が出ているこの王都で、迂闊に人と接触するのは危険だ。
だが、何か様子がおかしい。どこか不自然なほど乱れた足音だ。よく見ると、細い路地の奥からヨロヨロとこちらへ歩み寄る人影が見えた。月明かりに照らされたその姿は、ぼろぼろの服を纏い、体を震わせているように見える。
「誰か……倒れそう……?」
「待って、アレン、近づいていいの? 敵じゃないかもしれないけど、これだけ警戒されてる状況なのよ」
「わかってる。でも、あの足取りは兵士っぽくないし、明らかに怪我してるみたいだ。ちょっと声をかける」
カトレアが心配そうに見守る中、俺は路地の壁ぎわを伝うようにして人影に近づく。相手が兵士の罠なら危ないが、もし本当に苦しんでいるのなら放っておけない。警戒しつつも手を伸ばすと、その人影が顔を上げた瞬間、俺は驚きに息を呑んだ。
「……エレナ、さん……? 嘘だろ、こんなところに……!?」
そこにいたのはエレナ・ホワイトローズだった。血だらけといっていいほど服のあちこちが赤く染まり、頬は紙のように白い。華やかだった面影はまるで消え去り、今にも崩れ落ちそうな状態で路地に立っている。
「ア……レ…ン……さま、か……?」
そのか細い声に胸が締めつけられる。エレナは息を荒げ、目は焦点が合っていないように見える。彼女が襲撃されて昏睡状態だと聞いたのはつい最近のことだったが、どうやってここまで歩いてきたのかまるで理解が追いつかない。
「嘘、エレナさん、あなた……! どうしてここに!? あんな重傷を負ったって聞いてたわよ!」
後ろから駆け寄ったカトレアも衝撃を隠せない声を上げる。エレナは視線を定められないまま、一歩踏み出して膝を崩しそうになる。俺は慌ててその体を支えた。
「大丈夫か、エレナさん! こんな……本当に大丈夫じゃなさそうだ。とにかくこっちに……!」
「ごめんなさ……わたし、あれから……必死に……リシャール殿下の……」
息が乱れすぎて言葉が途切れ途切れだ。体温も明らかに下がっているのがわかる。ケガの具合がどの程度深刻なのか確かめたいが、この路地で立ち止まるのも危険。とはいえ、このまま放置すれば倒れて命の危険もある。
「とにかく、安全そうな場所を……って、どこに行けば……? わたしたちも逃亡中なのよ」
「仕方ない、今はこの辺りで隠れられる路地裏を探すしかない! できるだけ目立たない建物の影に……」
カトレアと二人でエレナの腕を担ぐようにして、近くの廃屋の陰へ移動する。夜の王都の裏道は至るところが危険だが、少しは身体を休めないとエレナが倒れてしまう。
「……リシャール殿下の、悪行を、示す、証拠……こ、ここに……」
エレナが震える指先を鞄に伸ばそうとするのを見て、俺はその手を支えた。
「わ、わかったから! そんな無理して話さなくていい。いま動くと傷が悪化するかもしれないじゃないか!」
「だめ……早く、これを見て、わたしが持ち出した……リシャール殿下の、秘密の契約書……」
彼女はそれだけで息も絶え絶え。カトレアが血まみれの彼女の服を見て顔を歪める。
「そんな、こんな状態で必死に歩いてここまで……どうして、命の危険を冒してまで」
「ごめん、少し止血しないと。どこが傷口で、どれだけ酷いのか……っ!」
周囲は暗く、傷をチェックするにも限度がある。エレナは小さな鞄の中を指差し「契約書……証拠……」と繰り返している。その姿に胸が痛む。いまは彼女の命を救うのが最優先だろう。
「エレナさん、わかった、あなたの証拠はあとで見るから、とにかく落ち着いて。くそ、こんな場所じゃ応急処置にも限界があるよ……」
「いいの……わたし、殿下の手が回る前に、アレンさまたちに渡さなきゃって……それだけが、わたしの……」
小さな声が途切れるように落ちて、彼女は苦しげに頭を垂れた。カトレアが焦った様子で肩を支え、「喋らないで、いまは安静に!」と声を荒げる。
「アレン、どうしよう……彼女、今にも倒れそうよ。どこか安全に横になれる場所を探さなきゃ」
「わかってる! でも、王都の至るところに兵がいるし……少しだけ離れた廃屋でも探そう。応急処置だけはしないと!」
「ええ、証拠の中身を確かめるのは後回しね。まずは助けるわよ!」
カトレアもエレナの腕を取り、二人で支えるようにしてまた歩き出す。裏路地の奥へ奥へと進みながら、俺は変な胸騒ぎを覚えずにいられない。もしエレナがここまで捨て身で運んできた証拠が本物なら、殿下を追い詰める切り札になるのかもしれない。だが、同時に大きな危険を呼び寄せる可能性も高い。
「エレナさん、耐えてくれ。あんたが生きなきゃこの証拠の意味もなくなるんだ。絶対死なせやしない!」
「……ごめん、わたし、もう……あまり長くないかも。だけど……あなたたちなら、きっと……」
「しゃべるなって! あんたがいなくなったら、俺たちは誰を頼ればいいんだ……!」
苦しい胸の内を吐露するように叫んでしまう。カトレアも「エレナさん、しっかりして!」と涙声になっている。どこかに人目を避けられそうな廃屋があればいいが、この暗い路地では簡単に見つからない。
「アレン、あっち、建物の影に隙間があるわ! とにかくあそこなら少し腰を下ろせそう……」
「よし……エレナさん、もう少しだけ耐えてくれ。今行くから!」
カトレアの指示を頼りに、どうにかエレナを引きずるように移動する。必死の思いで薄暗い建物の隙間に入り込み、床に布を敷いてエレナを寝かせる。夜の闇と冷気が痛いほど突き刺さるが、外を歩き続けるよりはましかもしれない。
「はあ、はあ……大丈夫か、エレナさん……」
「……リシャール殿下、の……悪行を、示す……証拠……見つけて……お願い……」
「わかってる、あんたの犠牲を無駄にしない。だから、死ぬな……勝手に終わらないでくれ……!」
「アレン、まず止血しなきゃ。少なくともこれ以上の出血を抑えないと、本当に危険よ!」
「そうだね……傷口を見よう。エレナさん、痛いかもしれないが耐えてくれ!」
息を切らしながら、カトレアと二人で必死に彼女の状態を探る。血はすでに乾いて固まっている部分もあるが、ところどころまだじんわりと滲んでいて、正直まともな治療は無理そうだ。温かいベッドも医者もない、この路地裏での処置は限界がある。
「くそ……どうして、こんな酷い怪我を抱えたまま歩き回ってるんだ。誰か助けてやれなかったのか……!」
「そりゃ、殿下の手が迫ってたら病院にも行けないし……わたしたちに証拠を届けたくて無理をしたのよ。よほど切羽詰まってたのね」
「エレナさん、俺たちは必ずその証拠を活かす。あんたが死んだら絶対に許さない。生きろよ、頼む……!」
エレナは薄く瞳を開けるが、言葉にはならず、唇を震わせるばかり。まるで最後の力を振り絞っているように見える。カトレアも悲痛な表情で「頑張って……!」と声をかけ続けた。
こうして、俺たちは傷だらけのエレナと再会を果たす。リシャールの悪行を示す“希望の証拠”を手に入れられる可能性がある一方で、彼女の命が危うい。慌ただしく止血や看護に当たりながら、夜の裏路地での絶望と微かな希望が交錯する。
果たしてエレナは助かるのか。そして、彼女が握っているという“リシャール殿下の悪行を示す決定的な証拠”は、どこまで効力を持つのか――不確定要素だらけだ。
俺とカトレアは、苦しそうに息をするエレナを励ましながら、必死に次の行動を考える。もし彼女が息絶えたら、捏造を暴く最後のチャンスすら失いかねないからだ。まさにギリギリの綱渡り状態――それでも、こうして再び会えた彼女の姿に、わずかな“希望の証拠”への期待を抱かずにはいられなかった。




