第2話 婚約破棄と糾弾③
あの衝撃的な婚約破棄宣言の後、会場は冷たい嘲笑と好奇の視線に支配されていた。王太子リシャール殿下は既に姿を消し、残されたのは――一人、黒いドレスのまま立ち尽くすカトレア・レーヴェンシュタイン。そして、その周囲にはちらほらと低く嘲るような声が飛び交う。
「公爵令嬢のくせに、こうもあっさりと捨てられるなんてね」
「裏で何をしでかしたんだか。どれだけ王太子殿下の逆鱗に触れたら、こんな大勢の前で……」
「気が強いって噂だったし、殿下とぶつかったのが運の尽きかな」
耳障りな言葉が次々と押し寄せる。これほどまでに露骨な悪意や、嘲笑を纏う場面を、俺は見たことがなかった。カトレアはその中心で、怒鳴るでも泣くでもなく、きっと唇を結んでいるだけ。横顔には絶望を押し殺した強い意志のようなものが見えなくもないが、その瞳には揺れるものを感じる。
(……耐えているのか……?)
俺は壁際に立っていた。王太子に逆らうなど、現実的に考えればあり得ない。自分の立場を守るなら、ここは黙ってやり過ごすのが得策だ。それは頭でわかっている。だけど、実際に目の当たりにすると、胸が締めつけられる。彼女に向かう嘲笑や非難の声が、まるで毒のように耳に突き刺さる。
「あらやだ、また一人で強がってるのかしら」「こんな場で醜態を晒すなんて、笑えるわ」「さすがにこのまま捨てられて、レーヴェンシュタイン家も没落確定ね」
凍てついた空気に、なおさら鋭い言葉が飛び交う。誰も彼女に手を差し伸べようとはしない。むしろ、面白がっているように見える者すらいる。俺は知らず、拳を握りしめていた。
(これ……あまりにも酷くないか。王太子殿下がいないところで、好き勝手言いたい放題で……!)
うまくいけば、ここで黙って見過ごせる。俺にはこの場をどうにかする力なんかない。それでも、心の奥の“何か”が抑えきれない。高位貴族だとか、王家の力だとか、関係なく。純粋に、目の前の光景が胸をえぐるように痛い。
「……ねぇ、私たち出ましょうよ。こんな空気、嫌じゃない?」
「そうね。婚約破棄されて一人取り残される公爵令嬢を観察なんて、ちょっと後味悪いし」
何人かが出て行く気配がする。場の空気はますます冷え込んでいるのに、言葉だけはヒソヒソと辛辣さを増している。その中心で、カトレアは瞳を伏せたまま微動だにしない。呼吸すら忘れているみたいに見える。まるで打ち捨てられた人形のようだ。だけど、そんな“強がり”な姿が俺の気持ちをさらにかき立てる。
「……あんな、殿下にあれだけ言われても、まだ反論しようとしないのかしら」
「どうせ高慢なんだから、『私の勝手よ』みたいに言い返したらいいのにね」
周囲の口さがない言葉が止まらない。言い返せない彼女を、なぶるだけなぶって楽しんでいるかのようだ。その瞬間、俺の中で何かが弾け飛んだ。
「……待ってください! そんなのはおかしいでしょう!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。華やかな大広間が一気に静まり返る。まるで楽団さえも息を飲んだように、音が消えた。数多くの視線が、一斉にこちらへ集まるのを感じる。それでも止まらない。俺は口を開いたまま、声を出す。
「いくらなんでも……さっきまで、あれほど華やかな場所だったのに。そんな一方的な、言われもない非難ばかりで……彼女が何か言えない空気を作るなんて、酷いじゃないですか!」
正直、声が震えているのがわかる。頭では「やめろ」と警鐘を鳴らしているのに、俺の身体は動きを止めない。心臓がうるさいくらい暴れている。ここで発言すれば、王太子殿下や高位貴族たちに睨まれる。領地にも被害が及ぶかもしれない。だが、それでも……見過ごすことはできなかった。
「……誰だ、おまえ……?」
低く鋭い声が響いた。その主は、つい先ほどまで人前に出ていたはずの王太子リシャールだった。いつの間に戻ってきたのか、あるいは立ち去る前に俺の発言を聞きつけたのか――いずれにせよ、この場には王太子がまだいる。
リシャールは険しい表情で、俺を見下ろす。周囲の貴族たちも、「下級貴族が何を言い出すんだ」といった様子で呆然としている。まるで信じられないものを見たように、口を開けたままの者もいる。
「俺は……アレン・クレストンと申します。地方の男爵家の跡継ぎです」
「下級貴族……ふん。おまえ、今の発言、なんのつもりだ? 我が決定に、文句でもあるというのか?」
リシャールの目が鋭く光る。これほどの威圧感を受けるのは初めてだ。背中に冷たい汗が流れるのをはっきりと感じる。それでも、一度声を上げた以上、引き下がれない。
「文句とかではなくて……あまりにも理不尽では、と思ったんです。カトレア様が本当に罪深いなら、国のためにそれを裁く方法があるはず。けど、今の状況では、彼女に弁明の余地すら与えず、周囲が嘲笑するだけ。いくら殿下でも、それではあまりに……」
「……黙れ。下級貴族風情が口を挟む場ではないわ」
リシャールは手を振り払う仕草を見せ、周囲がざわめき立つ。俺を取り囲むように、貴族たちが一歩ずつ後退していく。まるで「関わりたくない」という空気が伝わってくるようだ。だけど、何故か俺は後悔していない。
「ですが……正しくないことには、反論をさせていただきたい。俺は、私情を挟むつもりはありません。ただ、こんな、誰も彼女に耳を傾けないまま、嘲笑する空気って……どう考えてもおかしいでしょう!」
思いきり声を上げると、あちこちから「馬鹿な……」「自殺行為か……?」と驚愕のささやきが聞こえる。王太子に真っ向から意見するなど、確かに常識外れかもしれない。けれど、ここまできたら覚悟を決めるしかない。
「へえ……面白い。名もなき男爵家が、我に楯突くとはな」
リシャールが唇を歪ませる。その奥には危険な光が宿っている。次にどんな言葉が飛び出すかわからず、俺の身体は緊張で固まっていた。そんな時だ。
「……あなた……」
ふいに、か細い声が聞こえた。視線を向けると、カトレアがこちらを見ている。先ほどまで痛々しいほど沈黙していた彼女が、驚きと僅かな戸惑いの表情を浮かべていた。
(もしかして、俺の行動に驚いてるのか……?)
彼女の唇が震えている。名も知らぬ下級貴族が、その場の空気を読まず庇うように声を上げたのだから、無理もないかもしれない。だけど、その瞳の奥には、ほんの少しだけ光が差したようにも見えた。
「殿下、恐れながら……彼女を罪人扱いする証拠や、理由があるなら、公平な場で語るべきではありませんか? こうした夜会の席で、一方的に婚約破棄を宣言するのは……」
「黙れと言っているだろうが!」
リシャールが怒鳴り、会場全体にその声が響き渡る。次の瞬間、俺はグッと拳を握りしめて歯を食いしばる。逃げたい気持ちが湧き上がるが、それ以上に、“何かが間違っている”という確信が、俺を踏みとどまらせていた。
「……下級貴族の分際で、生意気を言うな。貴様程度が正義を語っても、我には届かん」
冷ややかに言い放つリシャール。しかし、俺は彼の目をまっすぐに見返した。たとえ届かなくとも、言わずにはいられない。一方、カトレアがそんな俺を見つめ、微かに息を呑んでいるのがわかる。ここで、俺と彼女の運命の歯車が噛み合い始めたのかもしれない――そう思うには十分な、衝撃的な瞬間だった。
「……さあ、貴様の名はアレンとか言ったな。覚えておけ。逆らうなら、それなりの覚悟をしろ」
リシャールの低い声が会場を凍りつかせる。貴族たちは「まずい、まずい」という雰囲気を漂わせ、明らかに俺から距離を取り始める。それも仕方ないだろう。これから何が起こるのか、想像しただけで背筋が寒い。
それでも、俺は視線を反らさず、今度は小さく息をついた。胸の奥が熱い。それは恐怖だけじゃない。目の前で蔑まれている誰かを、見殺しにするような後悔だけはしたくなかった。
(……もう、引き返せないな。いや、引き返すつもりもないけど……!)
こうして、俺とカトレアの運命は、ここで大きく交差し始める。王太子リシャールへの“無謀”な反論から、何が生まれるのか――この時の俺は知る由もなかったが、その決断がすべてを動かすきっかけになるのは、間違いなかった。




