第20話 ロイドの裏切り①
夜の王都は冷たく、どこか息苦しい。下町の一角にある貸し倉庫――そこが今日の密会場所だと伝えられたとき、ロイド・ブランシェの胸には強い嫌悪感が渦巻いた。それでも来なければならない。彼の領地と立場を守るためには、選択肢がもうほとんど残されていないからだ。
倉庫の扉を開けると、中はまばらに灯がともっていて薄暗い。その中央には高級そうなマントを身につけた男が立っていて、その周囲を取り巻くように数人の武装した従者が控えている。一目でリシャールの取り巻きだとわかる光景だった。ロイドは微かに喉を鳴らしながら足を踏み出す。
「よく来たな、ブランシェ卿」
低く威圧感を含んだ声が倉庫内に響く。ロイドはひとまず跪くわけでもなく、しかし敵対の姿勢も示さずに、静かに顔を上げた。目の前にはやはり、王太子リシャールの代理とも言える側近の一人が立っている。ロイドの視線を受け流しながら、側近は不敵に笑んだ。
「先日、殿下に従うよう勧めたが、どうやら賢明な判断をしてくれたのか? それとも、今日もなお“友を守る”などという甘い理想を抱えているのか?」
ロイドは答えに詰まったまま、薄い唇を噛んでいる。すでに自身の中では結論を出しているが、口に出すのには抵抗があった。それでも、領地を守るためにはやるしかない――そう決意し、声を振り絞る。
「……アレン・クレストンとカトレア・レーヴェンシュタインが潜伏している場所を、俺は把握しています」
「ほう。やはり、おまえにとっては自領こそが一番大事というわけだな。いいだろう、詳しく聞こうか」
「その前に、殿下は本当に俺の領地に手出ししないと約束してくれるのか? クレストン男爵家を捨てたあとに、ブランシェ領まで取り潰されるなんて勘弁だ。嘘であれば、俺は――」
「わかっている。殿下は“貴公に功績があれば領地を安泰に扱う”と確かに言及している。おまえを裏切るような真似はしないさ」
ロイドは少しだけ安堵の色を浮かべ、しかし自嘲の笑みも零れそうになる。アレンを裏切っている自分が、逆に裏切られないことを条件として求める――こんな矛盾に気づかないほど彼は鈍感ではない。だが、苦渋の選択なのだ。自分の領民を守るためには、友を切り捨てるしかない。
「……彼らは王都の外れにある古い屋敷に身を隠している。朝と夜の区別をつけずに潜伏しているようで、今は警戒も厳しいだろうが……場所さえわかれば、殿下の兵なら容易く捕まえられるはずだ」
「なるほど。まさか本当に教えてくれるとはね。ブランシェ卿、殿下はおまえの貢献を忘れない。クレストンとあの女を捨てた以上、これでおまえは殿下の庇護下に入ることになる」
側近の口調に揶揄が混じるのを感じながらも、ロイドは黙ったまま視線をそらす。これ以上、自分の罪悪感を刺激される言葉など聞きたくなかった。アレンとカトレアの姿が脳裏に浮かんで、胃の底がねじれるような痛みを覚える。
「……もし、もし殿下が約束を反故にしようとしたら? 領地の安全を脅かしたら? その時は――」
「心配しなくてもいい。殿下はそんな無益な嘘をつく方ではない。ただし、ブランシェ卿も二度と逆らうな。殿下の敵に回るなら、おまえも同じ運命を辿るだけだ」
「わかってる。……すでに俺は戻れない。これが俺の決断だ」
そうつぶやくと、ロイドの胸には猛烈な罪の意識が渦巻く。かつて幼少期を共に過ごしたアレンは、領地の未来のために、そしてカトレアを助けるために命を懸けていた。その姿を間近で見守り、時には手を貸していたはずなのに――今はこうして彼らを裏切りの淵へ突き落とそうとしている。
「殿下は、クレストンとカトレアを“国賊”として完全に始末するつもりだろう。あいつらはもう逃げ場がない。おまえの情報があれば万全だ」
「……そう、だろうな」
ロイドは拳を固く握り締める。答え合わせのように自分の口から“友を売った”と認めるような会話が続くたびに、頭が焼けるように熱くなる。だが、それでも領地を守るにはこの道しかないと自らに言い聞かせた。
「繰り返すが、今回の協力は正当に評価しよう。殿下もおまえを使い潰すような真似はしないさ。成功すれば領地は安泰、さらに貴族社会での発言力も多少は高まるかもしれないな」
「……ありがとう。それで、充分だ」
謝意を示しながらも、ロイドの声は冷ややかだ。取り巻きの側近は「ふん、案外しおらしいな」という表情を浮かべ、手を振るジェスチャーで従者たちに合図を送る。ロイドの言葉を一通り聞いた彼らは、もう用は済んだとでも言わんばかりに倉庫の奥へ退いていく。
「では、我々は殿下への報告に移ろう。ブランシェ卿、貴公も速やかに退いたほうがいい。ここで誰かに見られると面倒だろう?」
「わかってる。……それじゃ、俺は先に失礼する」
ロイドは踵を返し、扉へと急いだ。だが、外に出る直前、一瞬だけ振り返る。薄明かりに照らされた倉庫には王家の影が色濃く残っており、彼らはこれからアレンとカトレアを捕縛する手筈を整えるのだと考えると胸が詰まる。
「これでいいのか、俺……」
誰にも聞こえない小声で吐き捨てるが、その問いに答える者は誰もいない。倉庫の外へ出ると、夜風がさらりと頬を撫でる。ロイドは曇りきった空を見上げ、情けない自分を呪うように苦い息を吐き出した。
「アレン、カトレア……ごめん。でも、仕方ないんだ。これしか方法がないんだ……!」
震える拳を見つめる。誓い合った友情や、正義を求めるあの二人の熱意はよく知っている。だが、自分の領地と民を天秤にかけた時、ロイドにはどうしても捨てられないものがあった。後戻りはできないとわかっていても、罪悪感は怒涛のように襲ってくる。
「どうして、こんなことに……」
悔恨の想いがこみ上げる。もし殿下がもっと穏健ならば、こんな裏切りをしなくて済んだかもしれない。もしアレンたちが最初から王家を敵に回さなければ、こんな選択に追い込まれなかったかもしれない。でも、“もし”を並べても現実は変わらない。
暗い夜道を急ぎ足で歩き、ロイドは二度と振り返らないように首を振る。領地を守るため、身分を守るため、そして恐怖に屈した弱い自分のために――彼はアレンとカトレアの潜伏情報を渡した。罪の意識は拭えないが、その重さを抱えながら進むしかないのだ。
こうしてロイド・ブランシェは、友を裏切る道を正式に選んでしまった。リシャールの側近に情報を提供し、アレンとカトレアが隠れている場所を教えた以上、もう後戻りはできない。王都の夜の闇の中、ロイドは抑えきれない嘆息を落としながら、冷たい石畳を踏みしめていく。
罪悪感で胸が潰れそうでも、誰にもそれを伝えるわけにはいかない。彼が抱える苦悩は、これからさらに深い悲劇を生むことになるかもしれない――しかし、その足は止まらないまま、王家の保護を求める道へとひた走っていた。




