第19話 迫る逮捕命令③
薄曇りの空からは光がほとんど差し込まず、隠れ家の小さな窓辺はどこか陰鬱な雰囲気に包まれていた。朝だというのに、気が滅入るような重苦しさが漂っている。俺は屋敷の床に座り込みながら、頭を抱えてつぶやくように言った。
「……もし殿下に頭を下げれば、クレストン領も守れるのかな。殿下の怒りを解いて、俺が間違ってましたって謝罪すれば……少なくとも領民は苦しまなくて済むんだろうな」
自分でも、とんでもない弱音を口にしてしまったとわかっている。けれど、考えてしまうのは仕方ない――これまでの苦難を見れば、王子に屈服するほうがまだ楽だと思う瞬間があるのだ。静まり返った室内で、カトレアがはっきりとした声を上げた。
「アレン、それ本気で言ってるの? あなたが王太子の前に頭を下げてしまったら、今までの努力が全部無駄になるわ。領民は一時的に安泰かもしれないけど、あなたの“正しさ”はどうなるの?」
彼女の言葉は厳しいが、どこか震えも混じっている。カトレアは床に座ったままの俺に近づき、じっと覗き込むように視線を向けた。その瞳は、あの夜会で酷い仕打ちを受けた時の絶望を抱えながらも、今なお意志を保っている。
「正しさか……確かにそうだな。俺が殿下に跪いたら、カトレアが受けた理不尽な仕打ちを容認したことになるし、俺の領地も結局は殿下の足元に隷属するだけか」
「そうよ。もしあなたがそんな形で屈服したら、わたしだけでなく、あの領地の人々だって本当の意味で救われないわ。“殿下の気まぐれで許してもらえた”だけで、いつまた踏み潰されるかわからないもの」
「……確かに。それじゃ何も変わらないよな」
俯く俺の言葉を聞くと、カトレアは俺の腕を引いて軽く立たせようとした。力が強いわけではないが、その必死な気迫が胸に迫る。
「あなたは殿下に逆らった。わたしを助けるために王都全体を敵に回した。それをやりきる覚悟を貫かずに、いまさら諦められるの? あなたが諦めたら、本当にわたしは救われないわ」
「……カトレア」
「わたし、あなたに謝りたい気持ちもあるの。あなたの領民や友人まで巻き込んで、命の危険にも晒してる。でも、だからこそ中途半端に下を向かれては困るのよ。あなたがくじけたら、全てが終わる」
その声には悲しみだけでなく、しっかりとした決意が宿っていた。王都で蔑まれ、あらゆる嫌がらせを受けながらも生き延びてきた彼女だからこそ、諦めるわけにはいかないのだろう。俺は唇を噛みながら、強制的に立たされる形で目を合わせる。
「ごめん。俺、疲れすぎてたのかもしれない。朝起きたら“もし殿下に従えば……?”なんて、つい考えちゃったんだ。守るべき領地を見捨てるわけにはいかないけど、殿下には勝てないんじゃないかって」
「勝てないかもしれない。でも、勝たなきゃいけないのよ。リシャールの好き放題を許してたら、わたしとあなたの領地は永遠に屈服したままだわ」
「そうだよな……。そうだよ。殿下に屈したら、君が受けた仕打ちも正当化される。そんなの、俺は絶対に認めたくない」
うつむいていた視線を、カトレアに向けると、彼女の瞳が潤んでいるのがわかった。今にも泣き出しそうなのに、それを必死でこらえている。俺は思わず、その肩を優しく抱き寄せる。
「わたしは――、わたしはあの夜会で笑われた時、誰も助けてくれないと思ってた。けど、あなたが庇ってくれた。今もそうやって守ろうとしてくれてる。だから、ここであなたが王太子に頭を下げるなんて、やっぱり嫌よ」
「ごめん、馬鹿なこと言って。……俺は正しいと思ったから行動した。最後まで殿下の暴走を止めて、君を守って、領地のみんなも守る。やっぱりその道しかないんだ」
「そうよ……それでいい。弱気になるのは仕方ないけど、逃げてきたわたしをさらに見放さないで。あなたが諦めたら、ほんとにすべてが崩れてしまう」
「ありがとう、カトレア。君の言葉で目が覚めた。俺はやっぱり殿下に屈しないよ。どんなに苦しくても、諦めずに戦う。なんとしても、君を守りたいんだ」
彼女の肩越しに、小さな窓から差し込む薄明かりが見える。夜明けほど明るくはないが、その一条の光が俺たちを照らしてくれるようだった。何もかもが暗い状況とはいえ、ここには二人の絆がある。
「わたし、あなたに守られてばかりで申し訳ないけど、同時にわたしもあなたを支えてるつもりよ。……不思議よね、自分が誰かに勇気を与えるなんて思ってなかった」
「いや、支えてもらってるのは確実だよ。もし君がいなかったら、俺はもうとっくに折れてたかもしれない。そりゃ領民のことは大切だけど、自分一人で立ち向かうには殿下が強大すぎる……」
「でも、一緒なら乗り越えられる、そう信じましょう。ここまできて投げ出したら、わたしたちの“信念”なんて何もないわ」
「うん。君に改めて背中を押された気分だ。もう二度と“殿下に従おうか”なんて弱音は吐かない。絶対に正しいことを貫いて、君の無実を示すんだ」
そう宣言すると、カトレアの唇がわずかに緩んだ。小さく頷きながら、腕をほどいて俺と向き合う。その瞳は先ほどまで揺れていたものの、今は少し落ち着きを取り戻しているようだ。
「ありがとう、アレン。あなたが諦めないなら、わたしも最後までついていく。王太子が何をしてこようと、絶対に負けるもんですか」
「よし、決まりだな。たとえ逃げ隠れする日々でも、この意志を捨てない限り殿下の勝利にはならない。君と俺が協力して、必ず捏造を暴くんだ」
「ええ。そんな世界、あいつに支配されてたまるか。……いまこの瞬間は苦しいけど、わたしたちが生き延びれば、反撃のチャンスはまだあるはず」
「そうだとも。……暗い状況だけど、こうして再確認できたのは大きいよ。殿下に頭を下げるなんて絶対にまちがってる。俺たちが譲る必要はない」
再び窓の外に視線をやると、曇った空から一筋の光がこぼれてくる。まるで俺たちの決意を象徴するように、わずかながら部屋の中を照らしていた。その光を浴びながら、カトレアと俺はもう一度頷き合う。
「やっぱりあなたはバカ正直すぎるかもしれないけど、それが救いでもあるのよ。正義を貫く道は険しいけど、わたしはそこに賭けたい」
「賭けよう。俺たちの未来を、殿下に潰させはしない。領民だって必ず守る。あいつの横暴を止めなきゃ、いつか全部壊されるだけだ」
「そうね……絶対に守り抜きましょう。わたしのプライドだけじゃなく、あなたの領地も。王太子が強かろうと、私たちには諦めない心があるわ」
「うん。ありがとう、カトレア。おかげで吹っ切れたよ。もう弱音は吐かない」
笑い合うと、部屋の暗さが幾分か和らいだ気がした。もちろん、外にはまだ厳しい現実が待っているし、逮捕命令が出ている以上、危険から逃れたわけじゃない。けれど、ここで迷いを振り払ったことは大きい。
「じゃあ、早速だけど、またロイドに連絡してみましょう。彼が具体的な次の一手を見つけてくれるかもしれないし、わたしたちにもできることはあるかも」
「ああ、殿下に屈する気がゼロになったからこそ、全力で動ける。俺たちが協力して、どこまでやれるか見せてやろうじゃないか」
「ええ、やりましょう。……絶対に負けないって言ったのよ、わたし。」
カトレアの声に力がこもる。俺もそれに呼応するように頷き、ぐっと拳を握りしめた。あの一瞬、王家に従えば領地も守れるのではと考えてしまったことが悔しくてたまらない。しかし、彼女が俺の迷いを断ち切ってくれたからこそ、今ははっきりと“殿下のやり方を赦さない”と決められる。
「逃げ隠れの日々は続くだろうけど、それも一時だ。必ず俺たちの正義を証明して、殿下の捏造を暴いて、そして君の名誉を取り戻す」
「うん、わたしを助けたいと言ったのはあなたなんだから、最後まで面倒みなさいよ? わたしもあなたを支えるから」
「もちろんさ。……もう迷わない。君と一緒に、殿下の陰謀を粉砕するんだ」
そう誓い合った瞬間、部屋の空気がわずかに暖かく感じられた。二人でしっかり手を取り合ったわけではないが、同じ方を向いて立ち上がる――そんなイメージが重なる。
この王都の状況は絶望的だし、いつ兵士が突入してきてもおかしくない。けれど、俺たちの決意だけは揺るがない。まだほんのかすかな光しか見えないものの、それを掴むために手探りを続けるのだ。外の監視や偽の証拠に打ち勝つためにも、もう一度結束を固める。
「さあ、ロイドに連絡して、できることを全力でやろう」
「ええ。わたしだってもう弱気にならないわ。あなたがいてくれる限り、殿下なんかに折れるものですか」
暗い部屋の中で、二人が再び笑い合う。重苦しい空気の中にも、確かな光がちらりと映るように感じられた――それはお互いを想い合う気持ちが支えとなっている証拠だろう。もう王家にひれ伏す道を選ぶ気はない。嘘だらけの捏造を晴らし、苦しむ人々を救うため、この決意を胸に、俺たちは再び立ち上がる。




