第18話 友情の狭間①
王都の夜は、いつも騒めきときらびやかさを隠し持っていたが、この日は特に冷たい空気が通りを包んでいた。人通りの少ない細い路地を抜けてたどり着いたのは、古めかしい館の裏口。屋敷に似つかわしくない、薄暗いポーチの前に馬車が止まっており、ロイド・ブランシェはそこから足早に降り立った。
「……本当にここで合っているのか?」
ロイドが小声で呟くと、扉の隙間から人影が出てきて手を招いた。王家の威光を匂わせる派手な装いではないものの、どこか洗練された立ち居振る舞いが“位の高い人物”とわかる。夜の闇で顔はよく見えないが、微妙にピリついた雰囲気を放っているのがはっきりと感じられた。
館の中は、外観と打って変わって質素な作りだ。石造りの廊下を一歩踏み出すと、足音がやけに反響して耳につく。そこを短い時間で抜け、薄暗い応接室に通されると、ロイドは待ち構えていた人物と対峙した。
「ご苦労だったな、ロイド・ブランシェ卿……いや、“男爵家の友人”と呼んだほうがいいのかな?」
声の主は、王家の使者としてリシャールに仕える取り巻きだろう。厳つい仮面を被るわけではないが、表情には余裕のある冷笑が浮かんでいた。ロイドは深く眉をひそめ、壁際へ追いやられる形で会話を始める。
「王家からの呼び出しは、あまり嬉しいものじゃないと思っていたが……ここまでわかりやすく“密談”の形になるとはね。手短に頼むよ。俺には忙しい日々があるんだ」
「手短に済ませるさ。……まずは、殿下のお言葉を伝えよう。“アレン・クレストンとカトレア・レーヴェンシュタインを引き渡せば、ブランシェ領の安泰を保証する”とのことだ。彼らを匿ったり加勢したりするなら、そちらも巻き添えになるかもしれない、というわけだな」
「……アレンたちを引き渡せば、俺の領地や立場を安泰にしてくれる、と?」
ロイドは使者の口を通して語られるリシャールの意向に内心のざわめきを隠しきれない。殿下は手段を選ばないと言われていたが、ここまで露骨に“友を売れ”と持ちかけてくるとは。
「もちろん、殿下が直接お命じになったわけではなく、我々が“助言”しているだけですよ。アレンとカトレアを捨てれば、そちらの領地は殿下の怒りを買わずに済む。“賢明な判断”を下してもらえればそれでいい」
使者が嫌味な笑みを浮かべる。まるで何でもお見通しという態度だ。ロイドはぐっと奥歯を噛みしめつつ、静かに一歩身を引き、相手を見据えた。
「……断れば俺も国賊扱い、あるいは巻き添えにされる可能性がある。そう言いたいんだな?」
「ええ、その通りさ。そちらの領地だって大事でしょう? 下級貴族のアレンと“捨てられた公爵令嬢”カトレアを支えるよりは、自分の家と領民を守るほうが得策じゃないかな」
その言葉にロイドは胸の奥がじくじく痛む。自分と領地を守るためには、確かにこの選択が一番リスクを避けられる方法だ。だが、アレンは幼い頃からの友で、カトレアも助けたいと思う気持ちがないわけではない。光の差さない部屋で、ロイドは両手を握りしめて視線を落とした。
「殿下に従えば、俺の領地も安泰……確かに魅力的だが、即答はできない。アレンを売るような真似なんか、簡単には……」
「“簡単には”ね。断定はしないんだな? まあ、構わないさ。殿下も猶予はそう長くないと言っておられる。なるべく早い判断を望んでいるよ」
使者が近づき、ロイドの肩に手を置こうとしたので、ロイドはわずかに身をよじって避けた。友を売る気はない――そう言いたい気持ちと、心の中で領地を思う苦悩がぶつかり合っている。
「……俺は友を売る気はないよ。少なくとも、あいつらの事情を知っているからね。殿下の一方的な言い分にただ従うつもりはない」
「ふふ、それが“本心”なら勇敢なことだ。でも、君は貴族だろう? 自分の家臣や領民のことを考えれば、軽々しい正義感で決断できるかな?」
「ぐっ……」
痛いところを突かれ、ロイドは声が出ない。領地の人々が目に浮かぶ。もし王家の怒りを買えば、一瞬で支援や交易が断たれ、下級貴族のブランシェ家にとって死活問題になりうるのだ。もちろん、アレンだってこの苦しみを知っているからこそ、決死の覚悟をしているのだろう。
「殿下に従えば、領地は潤う。君の家も安泰。特別な優遇だって受けられる。……さあ、どちらが得かな? ここでアレンを庇い続けて共倒れになるか、賢明な選択をして生き残るか」
「煩い、黙れ。俺はそんな打算ばかりの男じゃない。……とはいえ、君の言うことも理解できるよ。領地を捨てるのも難しい選択だ」
「なら、答えは一つだろう。期限はそう長くない。私からの助言としては、“クレストンを売り渡せ”という以外になくてね。アレンとカトレアはどうせ、“国賊”扱いで潰される運命なんだから、君が苦しまずに済むようにしたほうが良いだろう?」
その言葉にロイドは重い沈黙で返すしかない。使者は冷たく笑みを浮かべ、扉のほうへ足を向ける。もうこの会話に興味はないという態度だ。
「まあ、猶予はあまりない。君も賢明だろうから、近いうちに納得するはずさ。殿下の怒りを買いたくないのなら、友を捨てるのが一番さ」
「……余計なお世話だ。俺にも意地はある」
「そうかい。では、それを貫くかどうか、殿下も興味深く見ているよ。失礼する」
バタン、と扉が閉まって部屋に静けさが戻ると、ロイドはきつく目を閉じて小さく息を吐いた。脳裏にはアレンとカトレアの姿が浮かぶ。二人は王都で苦闘しながらも、リシャールへの対抗策を探しているはずだ。自分にとっては大切な友人であり、助けたい思いはある。けれど、領地が一瞬で崩されるかもしれない恐怖もある。
「どうする、俺……。正義感だけじゃ守れないものがある。殿下と戦って勝てるほどの権力もない。けど、アレンを売るなんて……」
誰もいない部屋で、ロイドの声が虚しく反響する。隙間から差し込む外の光は薄暗く、今にも消えそうだった。どうにか踏みとどまろうとしても、殿下の圧倒的な権力の前では無力感が募るばかりだ。
「友を売るのか? それとも領地を捨てて殿下に逆らうのか……そんな選択を迫られるなんて、冗談じゃない」
拳を握りしめても、苛立ちや葛藤は消えていかない。王家の命令と友情の狭間で揺れるロイド。ここで裏切ればアレンやカトレアを失い、支えられてきた絆が崩れる。逆に突っぱねれば、ブランシェ家も含めた多くの人々を危険にさらすことになる。
「アレン……おまえ、本当に殿下に勝つつもりなのか? そんな奇跡が起きるのか?」
ロイドは静かに立ち上がり、窓の外を見た。夕暮れに染まる王都の街並みが目に入るが、その美しさを堪能する余裕などない。視界に広がる家々の向こう、王宮の方向に目を向ければ、そこにはリシャールの絶対的な支配がある。友人を助けるか、自分の領地を守るか――どちらを選んでも深い傷が残るという極限の選択が、彼を追い詰めているのだ。
「猶予はあまりない、か。殿下め……本当に最低な手を使いやがる。あいつらを国賊として潰してしまえば、俺たち下級貴族は首輪付きの犬になるしかないだろう」
悲嘆するように呟くと、外を巡回する兵士の姿が遠くに見えた。殿下の命令であろうか、街にはあちこちに警戒の兵が配置されているらしい。これだけの監視網をかいくぐってアレンに協力し続けるのはリスクが高い。しかし、それでも――
「……まだ決められない。すべてを犠牲にして友を取るのか、友を犠牲にして領地を守るのか。どっちが正解なんだよ」
ロイドの両手は何度も握っては開き、まるで自問自答を繰り返しているようだった。部屋には誰もいないが、その空気が息苦しいほど重い。簡単に「友を売るわけがない」と胸を張れない自分に、嫌悪感がこみ上げる。だが、領地を愛する思いもまた偽りじゃない。
「アレン、俺にどうしろと言うんだ……」
つぶやきは誰にも届かない。殿下の差し伸べた手は“甘い誘惑”であり、同時に刃にもなり得る。決断を先延ばしにするほど、猶予は縮まっていくわけで――ロイドは出口の見えない苦悩に苛まれながらも、決心をつけられないまま遠い夕焼けの空を見つめていた。
こうして、王家からの圧力を正面に受け止めるロイドの苦悩は、ますます深まっていく。アレンとカトレアが必死にもがく一方で、友として助けたい気持ちと、自らの領地を守らなければならない責務がロイドを締めつける。
光の差さない薄暗い部屋で、一人きりのロイドはただ呆然と立ち尽くす。背後に迫りくるのは、リシャールの冷たい支配の影――果たして彼はどんな道を選ぶのか。焦りは募り、時間は進む。静寂の中で、ロイドは重くため息を落とすしかなかった。




