表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/89

第2話 婚約破棄と糾弾②

 夜会の雰囲気が最高潮に盛り上がったところで、場内の楽団が一気に静まった。それまで楽しげに踊っていた貴族たちも動きを止め、広間の中央へ自然と視線が集まる。どうやら今宵のメインイベント――王太子リシャール殿下と令嬢カトレア・レーヴェンシュタインの舞踏が始まる合図らしい。


「いよいよか……」


 俺は壁際でグラスを持ったまま身じろぎもせず、リシャール殿下とカトレアの動きを見つめた。どちらも、まさに華やかな夜会の主役にふさわしい装いだ。王太子リシャールは堂々と胸を張り、優雅さと威厳を兼ね備えた立ち居振る舞い。カトレアは黒いドレスを身に纏い、やや強張った表情ではあるものの、その存在感は強烈だ。二人が手を取り合えば、まるで物語から飛び出してきた王子と姫――そんな風に見えるはずだった。


 しかし、その美しい光景は一瞬で壊される。リシャール殿下が踊りの姿勢を取らず、カトレアとの距離を取ったまま、声を張り上げたのだ。


「……カトレア・レーヴェンシュタイン。我はそなたとの婚約を、ここに破棄する!」


 思わず、場内全員が息を飲んだ。え? 婚約破棄? それもこのタイミングで? いや、それ以前に“破棄”などそうそう耳にしない。さらに相手は王太子と公爵令嬢という最高ランクの組み合わせだ。俺もあまりの衝撃に、一瞬思考が追いつかなくなる。


「婚約破棄……まさか殿下がこんな場で……!」


 周囲の貴族たちがざわめき始める。いったい何が起きているのかと誰もが疑問を抱き、その視線はリシャール殿下とカトレアに集中。だが、殿下はまるで誰に遠慮することもなく、さらに声を張り上げる。


「カトレア。そなたはあまりに高慢、国の秩序を乱す存在だ。我が婚約者としてあるまじき振る舞いの数々、もはや看過できぬ。ここで断じて断絶を宣言する!」


「……っ」


 カトレアは唇をきつく結んだまま、何も言わない。いや、言えないのかもしれない。殿下がこうして公衆の面前で名指しして糾弾するなど、滅多にないことだ。まるで見世物のように周囲から好奇の目を向けられ、どんな心境だろう。彼女の目には怒りと屈辱が混じった感情が宿っているように見えるが、それを必死に抑えているのがわかる。


「皆の者、よく聞くがいい。我が婚約者をここで解消するのは、国のため。そなたらも知っているだろう、カトレア・レーヴェンシュタインの数々の非行を……」


 王太子殿下は淡々と、しかし断罪するかのように言葉を並べる。「臣下にふさわしくない」「他の貴族と度重なる諍いを起こした」「国の方針に口を挟みすぎる」など――しかし、それらが本当に真実なのか、俺にはわからない。けれど、殿下の語気が強すぎて、場は完全に飲まれていた。


「……あれ、ちょっと酷くないか……?」


 思わず心の中で呟いてしまう。そりゃ、相手が王太子だからといって、この場で一方的に罪状を読み上げるなんて……あまりに過激すぎる。それに、この理由が本当かどうかも定かじゃない。貴族の世界には政略だの権力争いだの、複雑な思惑が絡むと聞く。今まさに、それが具現化しているのかもしれないが。


 カトレアは依然として口を開かず、ただ殿下を睨むように視線を向けている。周囲では小さな笑い声や軽蔑の囁きが聞こえ始め、彼女を「自業自得だ」「気が強すぎるから」と嘲笑するかのように見える。俺はそれに胸が痛む。真実はどうあれ、公衆の面前でこれほど晒し者のように扱われるのは見ていて辛い。


「……高慢な態度を取り続けた結果がこれか」「あんな強情そうな令嬢、殿下が持て余すのも当然」「これで国の秩序も安泰になればいいが」


 ひそひそと囁く貴族たちの声が、耳に飛び込んでくる。あまりにも一方的で、残酷な光景。だが、俺は下級貴族。ここで口を挟む資格もなければ、余計な波風を立てる勇気もない。たとえ正義感が疼いたとしても、相手が王太子となると簡単には動けない。


「……リシャール殿下の権威を見せつけたいんだろうか。それとも本当にカトレア令嬢が厄介者……?」


 混乱する頭で考えるうちに、殿下の断罪はエスカレートしていく。ついには「そなたは国に仇なす存在となる恐れがある」とまで言い切った。そこまで言うか、と周囲もさすがにざわつくが、誰も止めに入る人はいない。


 そしてついに殿下は決定的な言葉を放った。


「よって、ここに宣言する。カトレア・レーヴェンシュタインとの婚約は無効とし、以後いかなる関係も持たぬ。そなたの名誉は失われたも同然、覚悟しておけ!」


 会場は一瞬凍りついたかのような静寂。すぐに、低くざわめく声が広がる。ここまで過激な手段を取るなんて、誰も想像していなかったのだろう。俺も心臓がバクバクして呼吸が苦しくなる。こんな場面、普通ならあり得ない。


 カトレアは顔を伏せている。声を震わせるでもなく、怒鳴り返すでもなく、ただ耐えているように見える。美しい黒髪がさらりと揺れ、彼女の表情は隠れているが、その指先は強く震えていた。


「(……いくらなんでも酷い……!)」


 思わず握りしめた拳が震える。立場があれば、今すぐ止めに入りたい。けれど俺のような下級貴族が王太子に逆らったら、一体どうなるか。そんなことは想像するまでもない。全てを失ってしまうかもしれない。領地も、家族も、あの地で待っている皆だって、無事では済まされないだろう。そうわかっているからこそ、口を閉ざすしかない自分が情けない。


 王太子はまるで「これで終わりだ」と言わんばかりに、踵を返して貴族たちの前から去ろうとする。周りは静かに道を空け、カトレアを残して散っていく。まるで用済みの人形を捨てるかのように。俺はその光景に強い違和感を覚え、胸を鷲掴みにされたような気分になる。


「……リシャール殿下、少しは……彼女の名誉を守ろうとか、考えないんだろうか」


 さっきまで笑いさざめいていた夜会の雰囲気は一変し、一部の貴族は恐る恐るカトレアに視線を向けては、あざ笑うように囁き合う。冷酷なまでに瞬時に広がる悪意。これが貴族社会の実情なのかと痛感する。


「カトレア令嬢、もう終わったわね……」

「かわいそう? いやいや、自業自得だよ。本人の態度が悪すぎたんじゃないか」

「これでレーヴェンシュタイン公爵家の地位も危ういかもね」


 耳障りな言葉がそこかしこで飛び交い、俺は息苦しさを覚える。それでも、立場的にどうにもできない。これが現実だ。俺はただ、拳を握りしめてその場に立ち尽くすことしかできなかった。


「(今は……どうすることもできない。王太子に逆らうわけにはいかない。)」


 それでも、一瞬だけ彼女と視線が交わった――気がした。そこには、崩れ落ちそうなほどの悲しみと、悔しさ。何かを訴えるような光が宿っていた。でも、俺は頷き返すことすらできず、唇を噛みしめるだけ。あまりに大きい相手に対し、俺はあまりに弱い。


 こうして、豪奢な舞踏会で繰り広げられた衝撃的な婚約破棄の光景は、俺の心を深く揺さぶることになる――そんな夜の始まりだとは、この時、まだ自覚していなかった。思わず俯いたままの俺の耳には、曲も再開されない沈黙の会場で、小さな嘲笑や怜悧な囁きが不快なほど鮮明に響いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ