第14話 初めての衝突③
夜の静寂が屋敷を包み込む頃、俺は自室の机に突っ伏すように座り込んでいた。昼間の言い争いが頭から離れず、胸の奥が苦しくて仕方ない。
冷静になって考えれば、あんなにカトレアを傷つける言い方をする必要はなかったのに、苛立ちと疲労が限界を超えてつい爆発してしまった。
「……俺が悪かった、完全に」
自嘲まじりに呟いても、誰からも返事はない。部屋の灯は薄暗く、窓からは冷たい夜風が吹き込む。領内のことを考えなければならないのはわかっているが、集中できるわけもない。思考はぐるぐると空回りし、心に鉛の塊を抱えたような気分だった。
そんなとき、ノックの音が静かに響く。胸がひどく高鳴る。まさかこんな時間に誰が……と思いながら扉を開けると、そこにはドレス姿のカトレアが立っていた。昼間の衝突後、顔を合わせるのは初めてだ。
「……こんな時間にごめんなさい。話、いいかしら?」
「カトレア……あ、ああ。入って」
つっけんどんな言い方をしそうになるのを必死に抑え、ドアの脇を開けて招き入れる。彼女は躊躇した様子で一歩足を踏み入れ、部屋の中央で立ち止まった。ちらりとこちらを見上げる瞳には、どこか不安が宿っている。
「あなた、具合は大丈夫? 昼間、すごく疲れていたみたいだから……」
「正直、限界だった。今も少しキツいよ。でも……さっきは本当に悪かった。言い方がきつかったし、君を責めるつもりはなかったのに……」
「そう、謝らなくてもいいわよ。私も感情的になったし、あなただけが悪いわけじゃないと思ってるから。……それに、迷惑をかけているのは事実だし」
カトレアは苦笑まじりに小さく肩をすくめてから、俺の机の横に並ぶように立った。昼間の鋭い言葉が嘘のように、彼女の声は穏やかだが、そこには微かな震えが感じられる。
「迷惑なんて、俺が勝手に決めたことだろ。君を守るって言ったのは俺で……それなのに、“君がいなければ……”なんて言っちゃって、本当に最悪だった」
「うん、あれはショックだった。正直ね……。でも、わかるわよ。あなたがいま追い詰められてることぐらい、そばにいて痛いほど感じてるもの」
「そばにいてくれるだけで助かるのに、俺は……。ごめん、本当に」
素直に謝罪の言葉が出ると、カトレアは少しだけ瞳を伏せ、唇を引き結んだ。そして、やや戸惑いながらも静かに続ける。
「私も……ごめんなさい。あなたが必死なのをわかってたのに、『私がやる』『私がやる』って強く言うだけで、結果的に追い詰める形になってたのかも。あなたに甘えてばかりで、自分のプライドばかり気にしてたと思う」
「君がプライドを大切にする気持ちは、俺には理解できるんだ。王都で苦しみ抜いたからこそ、今度は自分で動きたいんだろうし、実際に力になってくれると助かる……。だから、俺のほうこそ、ごめん。冷たく突き放すようなことを言って」
「それを言ってくれるなら、もういいわ。私もあなたが全部抱えこまないでほしい。そうしないと、また同じ衝突を繰り返すかもしれないじゃない」
彼女の唇が小さく震え、「あなたに庇われてばかりじゃ、私の誇りが許さないの」と昼間言った言葉を思い出したのだろうか。続く彼女の声は少しだけ弱い。
「あなたが私を守るって言ってくれるのは嬉しい。でも、私だって何かしたい。ここにいる意味を自分で作りたいのよ。そうじゃないと、本当にただの荷物になってしまう」
「荷物なんかじゃない。俺の中じゃ、君は……すごく大切な仲間で、存在だ。王太子の圧力と闘うだけが理由じゃないんだよ。カトレアがそばにいてくれるだけで俺は救われてる」
「救われてる、ね……あなたのその言葉、ずるいと思うわ。聞くと私だって、あなたをもっと助けたいって思うから」
その時、二人の視線が重なる。いつもならツンツンと素っ気ないカトレアも、今だけは柔らかな瞳を向けてきて、心臓が激しく鼓動しているのが自分でもわかる。何というか、肩の力が抜けるような安心感が胸に広がっていく。
「本音を言うと、しんどい。領民の不安に応えきれず、王太子の圧力には勝てず、君との仲がすれ違うのが怖い。でも……諦めない。君と一緒なら、何とか乗り越えられると思う」
「……私も。アレンが勝手に遠ざけたら、王都で孤立していたあの頃と同じで、苦しくなるわ。だからもう喧嘩なんて嫌。ちょっと意見がぶつかったくらいで関係壊したくない」
「壊すわけがないだろ。もう少し落ち着いて、二人で一緒に考えよう。俺も君に頼りたいし、君の力を借りたい。これからは、意地を張らないでちゃんと言うから……」
言い終わらないうちに、カトレアがそっと手を伸ばしてきた。まるで抱きしめるタイミングを計ったかのように、柔らかな感触が胸に触れる。昼間とは打って変わって、お互いを傷つけ合うのではなく、求め合うような行動に心がドキリと弾む。
「……こういう時、どうすればいいのかわからない。私、あなたのやさしさを受け取るばかりで、何も返せない気がして……」
「返すとかじゃなく、いま君がこうしてそばにいてくれるだけで十分なんだ。俺は……ごめん、言葉にするの苦手で……」
「いいの、分かってるわよ。ほんと、あなたって不器用すぎるわね。でも、そこが……」
その先を口に出せないまま、俺たちは自然と体を寄せ合い、ついに抱きしめ合う形になる。驚くほどの安堵感が全身を包み、思わずカトレアの肩をそっと撫でる。彼女も黙ったまま、胸に顔を埋めるようにして、その呼吸が伝わってくるのを感じた。
「……これで、喧嘩は終わり?」
「うん。少なくとも今は……君がいないとダメだって気づいたから」
「ほんとに……馬鹿ね、あなた。わたしにひどいこと言っておいて……でも、馬鹿なのは私も同じよ」
「そうかな。でも、もう少しだけ馬鹿のままでもいいか。君とこうしていると安心する」
「……そういうのは恥ずかしいから、あまり口にしないで」
彼女の口調は、いつもの冷たさを伴わない柔らかい響きになっていた。密やかな吐息が頬にかかり、耳まで赤くなる。まるで恋人同士がようやく通じ合ったかのような、甘酸っぱい空気が部屋を満たす。心なしか、外の闇がいっそう深まっているのがわかるけれど、その暗ささえも二人きりの空間をロマンチックにしているようだ。
「ごめんな……これから先も辛いことはあると思う。でも、絶対に守るから」
「うん。私も……あなたを支えるわ。助けたい。あなたがここまでしてくれたことに、感謝してるから」
「ありがとう。正直、まだまだ解決策は見えないけど、一緒に戦うって約束だ」
「……ええ、そうね。一緒に戦う。それに、これが終わったら……ゆっくり休んで、もっと穏やかに過ごしたいわ」
その言葉が、どこか未来を約束する響きに感じられる。もう“ただの公爵令嬢”と“下級貴族の男”という関係ではない。互いに支え合うパートナーに近い何か――もしかしたらそれ以上の感情も芽生えているのかもしれない。俺はそれを意識しながら、うまく言葉にできないもどかしさに心が揺れる。
「……さて、じゃあそろそろ休もうか。明日からまた忙しいし、今日はもう十分頑張ったよ、俺たち」
「そうね。夜更かししても疲れが溜まるだけだし、あなたが倒れたら困るもの」
「君も倒れたら困るけどな。……その、今夜はありがとう。来てくれて」
「礼なんていらないわよ。私が謝りたかっただけだし……うん、今度は喧嘩しないように、お互い気をつけましょう」
「わかった。喧嘩する暇があったら一緒に問題を解決したほうがいいもんな」
そう言い合って離れようとするが、しばしのあいだ腕の力が抜けずに、互いの存在を感じ合ってしまう。これはもう明らかにカップル成立かと思うほど甘い空気が流れ、顔から火が出そうになる。
「……じゃ、じゃあ、私は部屋に戻るわ。何かあったら呼んでちょうだい」
「うん。ありがとう、また明日」
カトレアは名残惜しそうに扉を開け、廊下へ出ていく。最後にちらりと振り返った瞳は、すべてを許すようなやさしさを宿していて、胸が締めつけられる。今まで距離があったはずの“公爵令嬢”と、こんなに近い関係になるなんて、少し前は想像もできなかった。
残された部屋には、甘い余韻が漂っている。王太子殿下の圧力で追い詰められる現実は依然として厳しいが、それでも彼女と支え合うことができるのなら、この苦難を乗り越えられる気がする。
「よし……明日からまた、頑張ろう」
自分にそう言い聞かせ、灯を消す。暗闇の中、彼女の温もりを思い出しながら布団に潜り込むと、不思議と心が安らかだった。きっと明日も忙しいが、今は“彼女と一緒に戦う”という確かな想いがあるだけでも十分だ。
これが俺とカトレアにとって、新たな結束の証。まだ苦境は続くけれど、せめてこの夜くらいは二人が再び手を取り合えた奇跡を味わっていたい――そう感じながら、静かに眠りの中へ落ちていくのだった。




