第14話 初めての衝突②
翌日。
いつものように朝から領地内の要件をこなしていると、頭がぐらぐらするような疲労感が襲ってきた。寝不足とストレスは限界に達し、これまでは気合で乗り切っていた体が悲鳴を上げ始めている。けれど、領民からの苦情や商人への対応が山積みで、倒れるわけにもいかない。
「アレン様、また新しい報告が――」
「わかった。書類はデスクに置いておいてくれ。後で目を通す」
使用人が心配そうにこちらを見ているのはわかる。でも、いちいち言葉をかける余裕なんてなくて、ぞんざいに指示を出すだけになってしまう。背を向けた使用人の足取りには不安がにじんでいたが、胸が痛む余裕もない。
「……はあ」
廊下を歩きながら、重くため息をつく。あまりにも多くの問題を抱えすぎて、頭が焼き切れそうだ。こんな時、以前ならカトレアに相談して励まし合っていたのに――今はなんだか気まずい空気が流れている。昨晩も何とか彼女に謝ろうと考えたが、タイミングを失ったまま朝を迎えてしまった。
「アレン!」
そこへ、勢いよく呼び止める声が響く。振り向くと、カトレアが小走りで追いかけてきていた。いつになく真剣な眼差しに、胸がちくりと痛む。きっと俺の態度が冷たかったせいで、彼女も我慢が限界なのだろう。わかってはいるものの、疲労で思考がうまくまとまらない。
「……どうした? 悪いけど、今は急いでるんだ。領民が待ってるし」
「だからこそ声をかけてるのよ。私だってできることがあるはずだわ。こんな状態で、一人で全部抱え込むのは無理でしょ?」
「抱え込むなんて当然だ。ここは俺の領地だし、領民に示しがつかない。君が手を貸してくれるのはありがたいけど……」
そこまで言いかけて、胸に湧き上がる苛立ちが堰を切ったようにあふれ出す。自分が行き詰まっているからこそ、思わず口走ってしまう。
「……もし君がいなければ、こんなに問題は増えなかったんだ。それは否定できないだろう?」
「……それ、どういう意味?」
カトレアの瞳が揺れる。彼女が追い詰められてきたのはわかっているのに、言ってはいけないひと言が出てしまった。けれど、止まらないのは疲れのせいか、それとも王都の陰険な圧力への苛立ちか――自分でもよくわからない。
「そのままの意味さ。俺が王太子殿下に歯向かったのは、君を庇ったからだし、領民がこれほど不安になるのも、君が“悪役令嬢”として悪名を広められてるからだろ?」
「……そっか。やっぱりそうなのね」
カトレアは唇を噛み、目に涙を浮かべている。いつも気高い態度を崩さない彼女が、今は痛々しいほど無防備に感情をさらしているのがわかる。
「何度も言ったけど、俺は君を責めてるわけじゃない。ただ、事実として、ここまで領地が追い込まれてる原因に君が関係してるのは否定できないってことだ!」
「……わかってるわよ! あなたに守られてばかりで、私自身だって無力感を抱えてるのに、そんな言い方しなくてもいいじゃない!」
声を荒げる彼女に、近くの使用人や領民が驚きの視線を投げてくる。普段なら気にして落ち着くよう努めるが、いまはそんな余裕もない。俺も声を抑えられずに応じる。
「もう限界なんだ。領民への対応だって山積みだし、ビラのせいで商人は離れるし、君との関係も気まずくなるし……どうすればいいんだよ!」
「それを私に聞かないで! 私こそ聞きたいわ。王太子殿下から逃れて、領地に来たってのに、あなたがこんなに疲れてるのを見てると、胸が苦しいのよ!」
「じゃあどうしたいんだ? 俺の代わりに交渉できるわけでもないのに、“私が手伝う”って言われても何をしてほしいのか――」
「……私がいる意味がないって言いたいの!? それならあなたに庇われてるばかりじゃ、私の誇りが許さないわ。自分でも何かできるはずなのに、あなたはそれを拒否するんだから!」
彼女の言葉に怒りと哀しみが混ざっているのを感じるが、俺も疲れと苛立ちで何も言葉を選べない。二人の声量がどんどん上がり、まるでお互いの心をぶつけ合うように言い争いがエスカレートしていく。
「誇りって……そんな問題じゃないだろ! いま大切なのは領民の生活を守ることであって、君の誇りやプライドを満たすことじゃない!」
「あなたのそういうところ、腹が立つのよ! 私のプライドを捨てろって言うわりに、あなたは自分一人で抱え込んでるじゃない。結局、同じじゃない!」
「何が同じなんだよ! 俺がやってるのは領地を守るための責務で、君が王太子に捨てられた被害者面を続けている状況とは違う!」
「被害者面って……言ったわね。……もう、いいわ。私、あなたにとって邪魔者ってことなんでしょう?」
「そんな……違う。そこまで言ってない。だけど、正直今は一緒に頑張る余裕がないんだよ。分かってくれ!」
カトレアがぐっと涙をこらえたような表情で振り向き、床に視線を投げる。そのまま逃げるように回れ右をして、俺から離れていく。俺の声をかき消すかのように、彼女は早足で廊下を駆け、角を曲がったところで姿が見えなくなった。
残されたのは沈黙と、周囲で固まっている使用人や領民。中にはどう反応していいかわからない者も多いだろう。俺はその視線を背に受けながら、どうしようもない怒りと虚脱感を同時に抱える。自分がやっていることが正しいのか、もうわからなくなってきた。
「……悪い、みんな。仕事に戻ってくれ。俺も用事があるんだ」
少し乱暴にそう言い捨てて、その場を離れる。まるでカトレアを追いかけるでもなく、自分でも何をするのか決められずに、ただ脚が勝手に動いているような状態だ。
(まずい、こんな風に初めて本気でぶつかってしまうなんて。何度もすれ違いはあったけど、ここまで大声で怒鳴り合ったのは初めてだ)
頭の中で警鐘が鳴りまくりだが、疲れで頭が回らない。領民への対策を進めないといけない一方で、カトレアとの関係がこれ以上悪化したら、一緒に王太子に立ち向かうのは不可能になる。
「ったく、なんでこんなことに……」
つい口走ってしまったのは、心からの嘆きだった。カトレアを守りたいし、この領地も守らなきゃいけない。どちらも大事だが、今の俺にはそれを同時に抱えるだけの気力が足りていないのだ。結局、それが二人の衝突を引き起こしてしまった――そんなやりきれない思いだけが心を乱し、身体を重くする。
こうして、俺とカトレアは初めて正面衝突を起こし、険悪なムードのまま離れ離れになる。互いの言葉が相手の傷を抉り、怒りと悲しみが入り混じったまま、誰も救われていない――そんな苦しい現実を抱えつつ、俺はこの領地でまだ山積みの仕事に向かわねばならない。
外の天気は快晴なのに、心の中は荒れ狂う嵐そのもの。いつかこの嵐が過ぎ去った時、俺とカトレアは再び手を取り合えるのか。それとも、このすれ違いが修復不能な溝を生んでしまうのか――そんな疑問を抱いたまま、濁った気分で次の用事へ向かうしかなかった。




