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第2話 婚約破棄と糾弾①

 夜会の中心とも言える大広間へ足を踏み入れた瞬間、目の前に広がるまばゆい光景に思わず息を呑んだ。艶やかなドレスを纏った令嬢たちが優雅に踊り、タキシードに身を包んだ紳士たちがスマートに会話を交わしている。高い天井にはシャンデリアがいくつも吊るされ、無数の蝋燭の灯りが幻想的に場内を照らしていた。壁際にはバンドが陣取り、軽やかな音楽を奏でている。まるで絵の中に入ってしまったような美しさだ。


「す、すごいな……。これが本物の夜会ってやつか」


 俺は誰に向けるでもなく小声でつぶやく。地方の領地で目にする催しといえば、年に一度の収穫祭や簡単な祝宴程度。こんな盛大な舞踏会は、人生で初めて見る風景だ。浮足立ちそうな一方で、さっきから頭の片隅には「自分のような下級貴族がいていいのだろうか」という不安が渦巻いている。


 右も左も華やかな衣装の人々ばかり。俺は少し地味めなスーツを着てきたが、それでもずいぶん良い布地を使ってもらった。にもかかわらず、周囲のきらびやかな服装に比べると、まるで麦畑にひょろりと生えた雑草のようだ。おまけに、流れる会話の大半が貴族特有の上品な笑いと難しげな政治談義。俺には正直、入り込む隙が見当たらない。


「アレン様でしょうか? はじめまして、こちらの方にお連れしましょうか?」


 突然、近くを通りかかった侍従らしき若い男が笑顔で声をかけてきた。優れた接客術なのだろう、こうして場に馴染んでいない人間を見つけ、フォローしようというわけだ。


「あ、ありがとうございます。でも、少し見学させてもらってからで大丈夫ですよ」


「かしこまりました。何かございましたら遠慮なくお呼びくださいませ」


 侍従は会釈して去っていった。せっかく誘ってもらったのに断るのは失礼だろうかと思ったが、今の俺は混乱状態に近い。気の利いた会話なんてとてもできそうにないし、ちょっとだけ会場の様子を見渡して気持ちを落ち着けたい。


 舞踏スペースの中央では、すでに何組かの貴族が軽くステップを踏んでいる。曲はまだ激しいものではなく、あくまで余興レベルの優雅なリズム。にこやかな笑みを浮かべた令嬢と、そのパートナーとなる紳士がひらひらと舞うさまは、見ているだけでうっとりするほど美しい。


「うーん、踊るどころか挨拶すら危うい。社交のマナー、もっと真面目に勉強しておくべきだったな……」


 嘆息交じりに視線をさまよわせていると、背後でひそひそ話をする声が耳に入ってきた。さりげなく聞き耳を立てるつもりはなかったが、何やら気になる単語が混ざっている。


「……カトレア様……王太子殿下が手を焼いている……」

「ええ、最近はずっとあの令嬢のことが話題みたい。高慢で気が強いって噂は本当なのかしら」


 カトレア。その名前は昨日からちょくちょく聞こえてくる。公爵令嬢だという話を小耳に挟んだが、本人をよく知っているわけではない。もし夜会に参加しているのなら、さっきちらりと視界に入った黒いドレスの女性なのか――それとも別の人か。確かに周囲でも「あの公爵令嬢」なる話題が時々上がっているようだが、内容はあまり芳しくない。


「王太子殿下もあれほど聡明でご威光のある方。手を焼いているなんて信じられないけど……よっぽどの気性なんでしょうか」


「ま、下手に近づかないでおいたほうがいいよ。名家の令嬢だし、機嫌を損ねたらどんな報復があるか……」


 そこまで聞いて、俺は軽く頭を振った。気が強いとか高慢とか、あくまで噂レベルの話だろうし、実際どうなのかは当人を直接見なければわからない。しかし、周囲の雰囲気としては「ややこしい人物らしい」という認識が広まっている様子だ。


 それにしても、「王太子殿下が手を焼く」だなんて相当な強キャラを感じる。いったいどんな令嬢なのか、半分気になりつつも、半分は関わらないほうが得策だと思ってしまう。俺のような立場の者が、そんな大物に接近していいはずがない。トラブルに巻き込まれたらひとたまりもないし……。


「はあ、やっぱりここは俺には場違いすぎるかもしれないな」


 マナーに則ってシャンパンを受け取り、一口飲んでみるが、その繊細な味わいに舌が追いつかない。ただ美味しいのか酸っぱいのか、よくわからない。周囲の貴族が楽しそうに乾杯する姿を見て、ますます自分が浮いていると痛感する。


 少し壁際に避難して、目立たないように様子をうかがっていると、何人かの令嬢が俺をちらっと見ては、何か囁きあって笑っている――ような気がする。気のせいかもしれないが、どうにも落ち着かない。これならいっそ侍従に言って、誰か仲介役を紹介してもらったほうがいいだろうか。それとも、もう少し観察してから動くべきか。


「おや? お困りのご様子かな」


 不意に、柔らかな声が背後からかかる。振り返ると、派手ではないが上品なローブを着こなした中年の男性が、にこやかな表情で立っていた。見るからに穏やかで、人の良さそうな風貌だが、肩にはやや高級そうな紋章が刻まれたマントがかかっている。彼もそれなりの位を持つ貴族なのだろう。


「あ、いえ、ちょっと人が多くて……」


「はは、わかるよ。王都の夜会はとにかく豪華だからね。私も初めて来たときは、まるで本に書かれたお伽話の世界かと思ったものだ。私の名はリューディオという。伯爵家の分家の者で、あまり名は知られていないがね」


「アレン・クレストンといいます。男爵家を継いだばかりで、こういう場には慣れていません」


 言葉を交わすうちに、どうやらこのリューディオという人物も下位貴族に近い立ち位置らしく、王都の貴族界隈で特に権勢を振るっているわけではない様子。それでも流暢に会話してくれるので、少しだけ安堵する。


「もしよろしければ、少しお話し相手になっていただけますか? 私も知り合いが多いわけではないので」


「もちろん。助かります。実は……ちょっと緊張してしまって」


「それは普通だよ。王太子殿下の夜会だからね。貴族社会の注目が一気に集まる場だし、そもそも高位貴族同士の話題が尽きないから、我々のような者は隅っこで浮いてしまうこともある。ま、それもまた醍醐味だけどね」


 リューディオ伯爵(仮にそう呼んでいいのか、わからないが)は軽い口調で笑う。その柔らかい人柄に触れ、俺はほんの少し緊張がほぐれるのを感じた。


 彼との立ち話の合間、俺は遠くにいる貴族たちをちらりと見る。華やかなドレスに身を包んだ令嬢が何人も楽しげに談笑しており、そこには先ほど噂に聞いた名前――カトレアはまだ見当たらない。むしろ、みんなが「いつ彼女が来るのだろう」といった雰囲気でソワソワしている……ような気がする。


「ところで、アレン君はこの夜会にどういった目的で? まあ皆、殿下の招待だから参加するしかないのだが」


「ええ、それが本当に突然招待状が来て……断れずに来てしまいました。場違いじゃないかと不安ばかりで」


「はは、わかるわかる。でも大丈夫。仮に場違いだと思ってるのは当人だけで、他の人からすれば『下級貴族でも堂々としているな』くらいにしか思わない。ほら、堂々と胸を張っていればいいよ。とりあえず――あっ」


 リューディオの言葉が途中で途切れた。その視線の先を見ると、人々の動きが急にざわざわと変わったように感じる。何やら会場の入り口付近で大きな動きがあったらしい。


「王太子殿下が間もなく姿を現す、かもしれないな」


「王太子殿下……!」


 ついにあの権力の頂点に近いお方が登場するのか。会場全体に緊張感が漂い、ささやきが飛び交い始める。俺は思わず背筋を伸ばし、グラスを持つ手を握りしめた。ここから先、一体どんな波乱が起きるのだろう。夜会は始まったばかり、なのにすでに息苦しいほどの圧迫感だ。


「さあ、何が起こるかはわからないけれど、ここからが本番だ。殿下がご挨拶を済ませたら、そろそろ会場も本格的に盛り上がるだろう。それまで、お互いに流れをよく見ておこうじゃないか」


 リューディオはそう言って、俺に軽くウインクする。俺は思わず苦笑しながら深呼吸をした。見慣れない豪華な舞踏会、その中に響く服の擦れる音と香水の混じった甘い香り、交錯する視線と低い囁き――この空気の全てが、何か大きな出来事を予感させる。


 そう。まるで静かな湖面に石を投げこむ直前のように、夜会という舞台には得体の知れない緊張が漂っている。カトレアという名の令嬢への噂話や、王太子殿下の威光。そして今、殿下の登場という大きな波紋が広がろうとしているのだ。


「俺なんかが……この世界に足を踏み入れちゃって、大丈夫なのかな」


 誰にも聞こえないように呟き、俺は人混みの方へ目を向ける。次の瞬間、胸が少しだけ高鳴った。大勢の視線が入り口に集中している。王太子殿下が姿を現す。そのただ一つの事実だけで、華やかな会場の温度が急上昇したかのように感じられたからだ。


 こうして、俺の人生を変える一夜が、音もなく幕を上げようとしていた。

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