第11話 王太子の動き③
翌日。
俺は領地の隅々まで足を運ぶべく、朝早くから出かけた。畑を回り、家畜小屋を覗き、村の人々と話す――この領地を守るうえで必要な行動だし、最近の経済悪化がどれほど進行しているか実際に見なければならない。王都の支援が減り始めているという話を聞いて、ここ数日で急速に物資が足りなくなってきたようだ。
「アレン様、そろそろ小麦の在庫が底をつきそうです。次の収穫期までまだ少しありますが、今のままでは厳しいかと……」
とある家の主婦が、不安げにそう告げる。食糧に直結するだけに、村の人々の表情が暗い。もし王都への流通が止まり、代わりの取引先も見つからなければ、さらなる困窮は避けられない。
「わかった。とりあえず在庫管理を徹底して、みんなに少しずつでも分配できるようにしよう。俺も別ルートを探してみる」
「は、はい……すみません、アレン様」
「謝らないでくれ。俺がこの領地を守るのは当たり前なんだから」
家の主婦を安心させるように微笑みながらも、胸の奥では焦燥感が募っていた。思った以上に事態は深刻だ。あちこちで取引が止まり、ほとんど救いの手がない。殿下の威光を恐れている商人たちが次々と契約を解除し、結果的にここは孤立しつつある。
「……王太子リシャール殿下の圧力、確実に強まってるんだろうな」
立ち止まって溜息をついていると、後ろからカツカツと靴音が聞こえる。振り返ると、カトレアが憂いを帯びた表情で近づいてきた。彼女も領地の現状を知ろうと、俺と別行動で見回りをしていたらしい。
「どうやら、私のせいで……じゃないけど、やっぱり王太子に逆らった報いがあなたの領地を苦しめているのね。ごめんなさい……」
「だから、君のせいじゃないって。王太子とぶつかったのは俺の意思だし、最初からこうなるかもしれないとは思ってた。でも、改めて見回ると想像以上に厳しいな」
「……そう。それでも、私が殿下の婚約者だったときにうまく立ち回ってたら、こんなことにならなかったかもしれないと思うと……胸が痛いわ」
カトレアは唇をきゅっと噛み、目を伏せる。普段は強がる彼女も、この状況を前にしては言葉を失うほど落ち込んでいるようだ。俺は彼女の気持ちが痛いほどわかるが、それを表に出してしまえば彼女の自責がますます膨らんでしまう。
「仕方ないだろ。王太子は王家の跡取り、いやが上にも権力を持ってる。あの夜会で庇った時点で、こうなる可能性は高かった。それでも俺は君を守りたいと思ったんだ」
「……本当に、あなたはお人好し。自分の領地が危険にさらされても、私を優先するなんて」
「そりゃあ領民も大切だよ。彼らを守れないなんて、領主失格だ。でも、君を放り出すわけにもいかない。俺は両方守るつもりでいる」
「両方……? 本気で言ってるの? そんなうまくいくはずがないわ。どこかで折れないと――」
「折れたくない。それが俺の答えさ。君が悪いわけじゃないし、殿下の陰湿な手段を見て見ぬふりもできない。だから、最後まで足掻くよ」
俺は声に力を込め、彼女の瞳をまっすぐ見つめる。すると、カトレアはわずかに涙を浮かべかけた目を伏せ、震える息を吐く。
「……私、王都でずっと高慢な令嬢を演じてたけど、本当はこういう無力感を抱えるのが怖かった。家の都合で婚約させられて、結果的に殿下の不興を買って、追い詰められた。もうあんな思いはしたくないのに……今度はあなたの領地まで巻き込んでいる」
「巻き込まれたんじゃない。自分の意思で君に手を差し伸べたんだよ。誰にも強要されたわけじゃない。……大丈夫、きっと方法はある。まだ諦める時じゃない」
「……本当に、そう言える? 商人たちの契約解除は連鎖的に進んでるし、代わりの取引先も見つからないんでしょう?」
「たしかに現状は厳しいけど、他の地方領主や小規模商会、あるいは国外のルートも考えられるかもしれない。ロイドだって協力してくれると言ったし、一筋の光がないわけじゃない」
それでも、俺の言葉が自分への励ましにすぎないことは自覚している。本当にその光が見つかるかどうかは、まだ定かじゃない。けれど、こうして思いをぶつけ合うことで、お互いの弱さを補い合えるのなら――少しは前進できると信じたかった。
「あなたのことは信じてるわ。でなきゃ、ここにずっと居座るなんて選択、私にはできない。……でも、怖いの。殿下は昔から、自分の意に沿わない者を徹底的に排除する。今までだって私を利用したくせに捨てた。そんな男があなたを見逃すわけがない」
「殿下が本気で動いているなら、なおさらここで踏ん張るしかない。王都に戻って謝罪しろと言われても絶対に嫌だし、ましてや君を差し出すなんて論外だ」
「……ありがとう。正直、今はそれを聞くだけで少し救われる気がするわ」
カトレアは深く息をついて、地面を見つめる。普段の口調からは想像しにくい弱さが滲み出て、俺は思わず胸が苦しくなる。それでも、ここで弱音を吐くわけにはいかない。領民が困窮し始めている今こそ、領主として動かなければ。
「……君が落ち込んでると、俺も辛いんだ。だけど、君を責めたいわけじゃないし、領民だって君を恨んではいない。皆、君が王都で苦しめられた被害者だって知ってるしね」
「そんなこと……。王都の人たちは私を悪役令嬢扱いしてきたのに、ここじゃ逆に同情されるなんて、皮肉なものね」
「だろ? ここは王都とは違う場所なんだよ。だから、俺たちでどうにか守り抜こう。大丈夫、必ずやり方はあるはずさ」
「……そうね。あまり暗い顔してても仕方ないわ。わたしもできるかぎり動いてみる。殿下に対抗するなんて無茶だと思っていたけど、少しでも被害を抑えられるように」
彼女が決意を口にすると、その瞳にはわずかな光が戻ってくる。素直になれないながらも、ここまでくると頼もしく感じる。互いに踏ん張らなければ、この領地は本当に潰れるかもしれない。
「やっぱり君は強いな。誰がなんと言おうと、この状況でこうして立っているんだからさ」
「強くなきゃ生きてこれなかっただけ。褒められても嬉しくないわよ。……けど、ありがとう」
「はは、なんだよ、それ。ま、いつものことだから慣れたけど」
「うるさいわね。ああもう、こういう事態なのに、どうしてあなたは少しもくじけないの?」
「くじけそうだよ。けど君が一緒にいてくれるから、踏ん張れる」
そう言うと、カトレアは頬を赤らめ、顔をそむける。苦しい状況の最中でも、こうして言葉を交わすだけで胸が温かくなるなんて、何とも不思議な気分だ。王都ではあり得なかった関係性が、ここで育まれている。
「……もう。あまり恥ずかしいこと言わないで。わたしは一時的にここにいるだけなんだから」
「はいはい、わかったよ。でも、今は助け合って危機を乗り越えるべきだろ? 一緒に頑張ろう」
「ふん、わかったわ。わたしも、あなたを見捨てるつもりはないから。……ひとまずは、商人やロイドからの情報が頼りかしらね」
「そうだな。俺も他の地方領主と連絡を取るつもりだ。仕方ない、別の方法を探すしかないんだ。ここを放棄するわけにはいかないから」
そう言って歯を食いしばる俺に、カトレアも小さく頷く。窓から差し込む陽の光が、いまは少し痛いほど眩しい。王太子リシャールの圧力が強まり、領地の生活が脅かされる現実。それを思えば、この先の道は決して平坦ではない。
けれど、俺たちは決して諦めない。手探りでもいいから方法を探して、ここを守ってみせる。カトレアと目を合わせると、互いにわずかな笑みを交わし合う。ぎこちないながらも、お互いを認め合う心が、暗闇の中に一筋の光を見出していた。
そうして、領民の困窮を目の当たりにした俺たちは、次の手を考え始める。王太子の圧力は想像以上に強大だけれど、何もしないわけにはいかない。もう後戻りはできないのだから――。




