第11話 王太子の動き②
領地に吹き始めた不穏な風は、想像以上に早く現実のものとなって押し寄せてきた。
朝早くから執務室にこもり、書類を確認していた俺のもとに、領民を代表する男――リカルドが疲れた表情で訪ねてきたのが最初の合図だった。
「アレン様、話はお聞き及びでしょうが、王都の商会や取引先のいくつかが、契約を解除する意向を示しています。小麦の流通も、生活物資も、もうこのままじゃ続けられないと……」
「……やはり、本格的に動き出したか」
俺は書類から顔を上げて、重い吐息をつく。王太子殿下の影響力は計り知れないとはわかっていても、ここまで早く、そして露骨に契約解除が連鎖するとは思わなかった。リカルドが持参した報告書には、取引先が相次いで「新たな契約は結べない」「これ以上の納品は難しい」と通告している旨が記されている。
「まったく……どこも軒並みダメなんだな。量だけでなく、品質の維持もままならないか」
「はい。王都への販路が事実上閉ざされつつあるので、我々が作った作物も売り先を失いかねませんし、逆に必要な生活物資が入らない。領民たちが不安を隠せずにいます。これ以上の混乱は避けたいのですが……」
「わかった。ありがとう、リカルド。とりあえず対策を考えるから、みんなにはそう伝えてくれ。俺も近いうちに説明するよ」
「承知しました。しかし、アレン様、ご無理はなさらず……」
リカルドが深々と頭を下げて執務室を出ていくと、俺は重たい気持ちで椅子にもたれかかる。一刻の猶予もない状況が、着実にクレストン領を追い込もうとしている。このままだと領民の生活にも直結する問題だ。食糧や生活必需品が滞れば、苦しむのは主に弱い立場の人々――そんな未来は絶対に避けたい。
「アレン……どうにかならないのかしら」
振り向くと、入り口に立っていたのはカトレアだった。いつの間にか聞いていたのか、あるいはリカルドの報告がよほど目立ったのか、彼女の目には焦燥感がにじんでいる。
「聞いてたんだな。そうなんだ、経済状況が一気に悪化してる。王都からの物流が止まるとなれば、どうにも……」
「……私のせいかもしれないわ。やっぱり、私を匿っているせいで、王太子殿下がここを狙ってるんでしょ? 私なんかがいなければ、あなたの領地はこんな目に遭わなかったのに……」
「いや、違う。これは俺が殿下に逆らった時点で覚悟していたことだ。君がいなくても、いずれ仕掛けられたと思う。だから責任を感じなくていいさ」
「でも……私がもう少し王都で上手く立ち回れていたら、あるいは最初からあなたが私を庇わなかったら、こんな事態は避けられたかもしれないじゃない」
カトレアは唇をぎゅっと噛み、まるで自分を責めるように視線を落とす。普段のツンとした態度を保てないほど、無力感に苛まれているのがわかる。
俺は立ち上がり、ゆっくりと彼女のそばに近づく。机上には契約書の山が散らばり、無情にも「解除」の文字が並んでいるのが目に入っていた。
「正直、これは王太子殿下の権力の前ではどうしようもない部分もある。それでも諦められないから、何とかしようとしてるんだよ。君のせいにする気はない。むしろ、君がいてくれるから俺はまだ踏ん張れてる」
「……そんな風に言わないで。わたしは何も役に立ってないのに、あなたがそれで追い込まれるなんて、私は嫌よ」
「立たせてくれてるんだよ。君がここで苦しんでいるのを見て、助けたいと思うからこそ、俺も頑張れるんだ。まあ、領民からすれば迷惑をかけてるかもしれないけど、それなら俺が責任を持って対処する」
「アレン、でも……」
言いかけてカトレアは言葉に詰まる。俺の差し出す言葉が彼女の自責を完全には消せないことはわかっている。それでも、俺は彼女を追い詰めたいわけじゃないし、今はただ“協力してこの難局を乗り切る”ことが最優先だ。
「とりあえず、領民代表にも呼びかけるつもりだ。王都以外の商圏と繋がりを作れないか模索する、あるいは当面は自給自足に近い形でやりくりしてもらう……いくつか手を打たないと」
「でもそんな簡単にいくの? 王都以外の商人も、王家に睨まれた領地には近づきたがらないでしょう?」
「そこはそうだろうな。だけど、何もしないよりマシだ。場合によっては領主である俺が足を使って各方面へ話をしに行くしかない。領地を見捨てられない以上、どんな道でも探さないと……!」
思わず声が熱くなる。するとカトレアはわずかに表情を和らげ、俺の横に並んで書類の山を見つめる。どの契約書にも「停止」や「保留」の文字が増えていて、ひどく心が痛む。
「こんなに次々と止められて……もし何も変わらなかったら、領民はどうなるの?」
「餓えが広がるか、商売が成り立たなくなるか、最悪の場合、領地そのものが立ちゆかなくなるかもしれない。……それだけは何としても避けたい」
「そうね……私も少しは知恵を絞るわ。王都で嫌というほど貴族間の繋がりを見てきたから、他の地方領主や商人に顔が利くかもしれない。王太子殿下に完全に逆らいたくはないけど、彼の取り巻きのいない領地なら……」
「なるほど、そっちの方向で探ってくれれば助かる。昔の人脈を探れば活路があるかもしれない」
「私にできることはそれくらいだもの。黙って部屋にこもってるより、働きたいわ」
珍しく前向きな姿勢を示すカトレアに、俺はやや驚きつつも嬉しさを感じる。相変わらずツンとした空気は保っているものの、その瞳には決意が宿っている。追い詰められると行動的になるのは、王都での経験がそうさせるのかもしれない。
「よし、まずは君がわかる範囲でリストを作ってみてくれ。俺も領民代表と相談して、当面の生活をどう維持するか話し合ってみる。このまま指をくわえて王太子の圧力に屈するわけにはいかないからな」
「わかったわ。……こうして見ると、あなたも相当大変なのね。下級貴族と言っても、立派に領主してるじゃない」
「頑張ってるだけさ。実家から継いだ領地を守れないなら、俺が男爵家を継いだ意味もない。君を迎え入れた以上、もう逃げるわけにはいかないんだ」
「……そっか。守るものがあるって、こういうことなのね」
カトレアはそう呟き、書類の束をそっと抱きしめるように持ち上げる。王都での悪辣な駆け引きばかりに疲弊していた彼女が、ここでは自分の役割を見いだそうとしているように見えた。
「何か困ったらすぐ言えよ、君が無理するのは見たくないし。焦って倒れられたら困るから」
「わかってるわ。そっちこそ徹夜は厳禁よ。私に気を使って頑張りすぎて、領地主がダウンしたら話にならないわ」
「はは、だね。じゃあ、行ってくるよ。領民代表たちと打ち合わせしてくるから、君は屋敷でリストアップ頼む」
「まったく、あれこれ私に指示しないでよね。別に喜んでやるわけじゃないんだから」
ツンとした言葉とは裏腹に、彼女の瞳はどこかやる気を帯びている。俺は何も言わずにその背中を見守ったあと、大きく息をついて廊下を出る。暗雲が立ちこめ始めた領地経済をどう切り抜けるか――彼女と共に打開策を探せるのは、ある意味幸運かもしれない。
このまま王太子の圧力で物資が完全に止められてしまったら、俺の領地だけでなく、カトレアの未来までも断たれる恐れがある。でも、ここで踏ん張りどころだ。少なくとも彼女が無力感に沈んでしまう前に、仲間として支え合える関係を築けそうだ。そんな手応えが、俺の胸を強くする。
「アレン様、先ほどリカルドさんが大広間でお待ちです」
「わかった。今行く」
使用人の一人が声をかけてくれ、俺は一歩を踏み出す。カトレアもアレン・クレストンも、それぞれ苦しい立場だが、だからこそ共闘できる。一時の安寧が崩れる音が聞こえつつある今、王太子の影に怯えるだけでなく前向きに動くしかない。
背後で聞こえる小さな足音に、カトレアも自室へ向かったのだと気づく。お互いに役割分担を果たし、この危機を突破する――ほんの数日前まで考えられなかったチームワークが、ここで生まれつつある。苦境に立たされてはいるが、不思議と心は折れていない。
王太子に睨まれた領地がどう戦うのか、その結末はまだわからない。けれど、カトレアがいてくれる今なら、俺は簡単には諦めない。たとえ“悪役令嬢”と呼ばれようが、実際は優しさを隠し持つ彼女と共に、この困難を乗り越えたい――そんな決意を胸に、俺は大きく背筋を伸ばして会議の場へと足を踏み出した。




