第1話 夜会への招待③
王城へ入るための門をくぐった瞬間、俺はまるで夢の中にでも迷い込んだような気分になった。まばゆいばかりの光を放つ白亜の壁、繊細な彫刻が施された柱、そして宝石を散りばめたかのようにきらびやかな飾り付け。宿の豪華さに驚いていた自分が、一気に恥ずかしくなる。さすがは王太子殿下が主催する夜会の会場だ。
「す、すごい……これが王城の正面ホール……?」
混乱気味につぶやいていると、近くを通りかかった侍従らしき男性が軽く咳払いをした。彼は黒い燕尾服をまとっており、背筋を伸ばして凛とした態度を崩さない。
「失礼ですが、招待状のご提示をお願いできますか?」
「え、あ、はい。すみません、こちらです」
俺は慌てて懐から王太子殿下の紋章が入った招待状を取り出す。見るからに高位貴族や騎士風の人々が行き交うこの場で、俺のような下級貴族が呑気に眺めているのは浮いているかもしれない。気を引き締めなくては……。
「アレン・クレストン男爵家当主、ですね。ようこそお越しくださいました。受付はあちらにございますので、順にお手続きをお願い致します」
「は、はい。ありがとうございます」
侍従の案内に従ってホールの奥へ進むと、さらに目を奪われるような光景が広がっていた。絹の絨毯が敷き詰められ、壁には大きなタペストリーが数枚飾られている。どれも歴史ある美術品らしく、赤や金で彩られた紋章が目を惹く。その先には受付とおぼしき机があり、数人の貴族が列を作っていた。
「ふう、まだ夜会は本格的に始まってないのに、この盛況ぶりか……」
俺が小さく息を吐いていると、列の前にいた貴族同士の会話が耳に入る。
「もうすぐリシャール殿下もお見えになるそうだ。高位の方々も続々とお越しのはずだよ」
「確か伯爵家の若き令息も招かれているらしい。彼はかなりの実力者らしいよ」
「そういえば、公爵令嬢のカトレア様もご出席とか……おっと、あまり大きな声で言えないんだった。色々と噂が飛び交ってるしね」
カトレア……? どこかでその名前を耳にした覚えがあるが、詳細までは思い出せない。前に宿でちらっと聞こえてきた名と同じだろうか。ともあれ、高位貴族の話なんて俺には縁遠い。口を挟む勇気もないので、俺は黙って自分の順番を待つことにした。
ようやく受付で名前を告げると、担当らしき女性が微笑んで招待状を確認してくれる。
「アレン・クレストン男爵様ですね。お待ちしておりました。先ほど殿下から、下級貴族の方々もくまなく歓迎せよとのお達しがあったばかりでして。ごゆるりとお楽しみくださいませ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
丁寧な対応には感謝するものの、「下級貴族」扱いなのはやはり少し肩身が狭い。だが、追い返されるよりはずっとマシだ。笑顔で礼を伝えて、首をすくめるように会場入りする。
そこから奥の廊下へ足を踏み入れると、一層絢爛な装飾が目に飛び込んできた。まるで花の香りを凝縮したようなフレグランスが漂い、天井からは豪華なシャンデリアが垂れ下がっている。そんな世界を目にするのは初めてだ。圧倒されていると、何人かの貴族が俺の横を通りすぎる。彼らは上等な仕立ての服をまとい、まるで当たり前のようにこの空間に溶け込んでいる。
「いやあ、田舎者丸出しに見えないよう気をつけないと……」
独り言のボリュームを下げて、周囲をちらりと伺う。すると、向かい側の廊下の奥に、なにやら人だかりができているのが見えた。彼らは小声で話しながら、まるで道を譲るように左右へ避けているようだ。何か重要な人物でも通るのだろうか。
その瞬間、ふと俺の視線が奥の方の人物へ吸い寄せられた。艶やかな漆黒のドレス、背筋を伸ばして歩く優雅な姿勢、そして遠目にもわかるほど整った横顔――まるでそこだけ別世界の光を宿しているかのような気品を放っている。
「……あれが……?」
言葉にするのもはばかられる。取り巻きの者たちが彼女の左右を囲み、まるで貴重な宝石を護衛しているかのようだ。俺はその人が誰なのか知る由もないが、さっき耳にした噂――公爵令嬢、カトレア……という名が脳裏に浮かんだ。自分の勘が正しいかはわからない。でも、この圧倒的なオーラはただ事ではない。
「あの方が噂の……かもしれない」
まだ確信はないが、胸の奥がざわついている。一体どんな人なのだろう。高位貴族の娘といえば、わが家とは身分がかけ離れている。俺のような男爵家当主など、彼女にとっては取るに足らない存在かもしれない。けれど、どうしてだろう、わずかに姿を見ただけなのに、視線を外すことができない。
「……まずいな。変に注目してると思われたら恥ずかしいじゃないか」
慌てて目をそらそうとするが、ついつい横目で追ってしまう。高位の取り巻きらしき男性が先に進む合図をすると、彼女――おそらくカトレアとおぼしき女性――は一瞬こちらにちらりと視線を向けた。いや、こちらを見たというよりは、廊下全体を見回しただけかもしれない。でも、そのわずかな仕草だけで、俺は胸が高鳴るのを自覚した。
「なんだ……なんで、こんなにどきどきしてるんだろう。近寄りがたい雰囲気があるのに、引き寄せられるみたいで……」
あちらは俺の存在に気づいた様子もなく、サッと通り過ぎる。取り巻きとともに階段を上がって行く後ろ姿を、俺は呆然と見つめてしまう。あのドレスの黒と銀のコントラスト、そして歩くたびに揺れる髪と裾……どれをとっても完璧な品格を感じる。高飛車だとか、気性が激しいといった噂があったとしても、俺にはよくわからない。ただ、圧倒的なオーラしか目に入らなかった。
「……なんか、別世界の人って感じだな」
ふう、と息をついて視線を落とす。俺はまだ受付を済ませたばかりで、廊下で立ち尽くしている状態だ。周りの貴族たちも思い思いに話したり、奥の広間へ進んだりしている。夜会はこれから本格的に始まるらしい。
「こ、こうしちゃいられない。まずは会場に入らないと、いつまでも場違いなままだし……」
正面の扉へ足を向けると、そこにはすでに数人の侍従と楽団と思しき人々が行き交っていた。なんとも華やかな空気だ。地方の領主として農作物や収穫を管理していた頃の自分とは、まるで次元が違う世界にきてしまったような気分になる。しかし、ここへ来たのは俺自身の意志。いつまでも臆病でいては何も始まらない。
「よし、少しだけ深呼吸して……よし。大丈夫。とりあえず、顔だけでも堂々としていよう」
そう自分に言い聞かせ、扉の前で一度だけ背筋を伸ばす。奥では音楽が流れ始めているようで、穏やかな弦の響きが廊下まで届いてくる。高位貴族たちが優雅に踊り始めるのはもう少し先だろうが、それを想像するだけで緊張が増してくる。
「夜会が、始まるんだな……」
独り言とともに扉を開く。眩しいほどの明かりと、香り立つ香水の混じった空気が舞い込んできた。さあ、これが王都の社交界――王太子殿下が主催する大舞踏会だ。俺は自分に言い聞かせる。大丈夫、少なくとも逃げ出すわけにはいかない。男爵家の当主として、しっかりと振る舞わなければ。
先ほど目にした令嬢の姿が、頭に焼き付いて離れない。どこかで再び会うのだろうか。いや、会うチャンスがあるとしても、俺のような存在に興味を持つはずがない。遠くから見ているだけで十分だろう。そう割り切ろうとするたびに、なぜか心の奥で小さな声がささやく。「本当にそれでいいのか?」と。
「まあ、今は考えなくていいか。とにかく、行ってみよう……!」
こうして俺は、胸いっぱいの不安と一握りの期待を抱えながら、きらめく世界の入り口をくぐる。――夜会の幕開けだ。ここから先、どんな波乱が待ち受けているかなど、知る由もないままに。