第10話 カトレアの過去③
テラスでの回想をすべて語り終えると、カトレアは静かに目を伏せた。夕闇を少しずつ飲みこみ始めた夜空の下、俺は気持ちの整理をつけるように深呼吸をする。彼女の背負ってきたもの――王家と家族の狭間で踊らされ、悪役呼ばわりされながらも、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた事実が重く胸に響いてくる。
「そんな酷い仕打ちを受けていたのに、あなたはそれでも凛としていたんだな。ずっと高慢で……正直、王都では誤解されていたんだろうけど、実はずっと耐えていたわけだ」
わずかに震える声で言葉を紡ぐと、カトレアは苦い笑みを浮かべて顔を上げる。
「高慢に振る舞う以外、選択肢がなかったのよ。家を背負わされて、王太子殿下の機嫌も取らなきゃいけないし……誰も私の話なんて聞いてくれなかったから」
「それでも諦めなかったんだな。王太子に見捨てられた今ですら、こうして立っているんだもの。すごいと思う」
「褒められても嬉しくなんかないわよ。結局、あそこで私が“悪役令嬢”を演じた結果、貴族社会じゃ誰も助けてくれない状態になったんだから……」
ツンと棘のある口調ではあるが、その奥に隠しきれない安堵が漂っているように見える。彼女の姿をここまで間近にして、初めて本当の姿を知れた気がした。王都で出会ったころは、どこか雲の上の人のように思えたが、実際は孤立と重圧に押しつぶされそうになりながらも必死に生きてきたのだ。
「でも、あの日の夜会で君を庇ったのは正しかったと思うよ。あそこまで王太子に追い詰められたのに、君は潰れなかった。あの日の君を見て、どうしても放っておけなかったんだ」
「ほんと、あなたはお人好しね……あんな風に逆らったら、下級貴族としての立場が危うくなるのはわかっていたでしょうに。よくやるわよ」
「そうかもしれない。でも、後悔なんてしてないさ。むしろ、君の本当の姿を知れた今は、なおさら守ってあげたいって気持ちが強くなった」
「守る、ね。あなたが“守りたい”と思ってる理由が、やっと少しわかったわ。私が抱えていたものを知ったら、余計に放っておけないのかしら?」
カトレアの瞳がこちらをじっと射抜くように見つめる。一瞬、息が止まりそうになるが、俺は耐えて、はっきりと応える。
「うん。もっと力になりたいと思う。君がこんな重圧と戦ってきたのに、それを誰も理解しようとしなかったんだろ? ならば、せめて俺だけでも味方でいさせてほしい」
「……味方、ね。私のためにそこまで言うなんて、本当に馬鹿じゃないの?」
「馬鹿でも何でもいいさ。ここまで来たらもう怖いものはないよ。もし王太子が何を企んでいようと、俺は君を守る。領地にも迷惑をかけたくないけれど、君を放り出すなんてできないんだ」
そう言い切ると、カトレアは少しのあいだ沈黙する。テラスを吹き抜ける風が、彼女の髪をかすかになびかせ、その表情を隠す。俺はわずかに不安を覚えながら、ここで否定されたらどうしようと気がかりだった。
しかし、次の瞬間、カトレアはちらりと視線をこちらに戻し、唇を震わせながら小さく呟く。
「……あなたに、そこまで言われると、嬉しいとかじゃなくて……どう反応したらいいかわからないのよ。私、王都でずっと悪役を演じてきたから、本当に味方がいるって感覚が思い出せないの」
「いいんだ。ゆっくりで。俺も焦らせるつもりはないから。ただ、もし辛いことがあったら何でも言ってほしい。家の圧力だろうが王太子の陰謀だろうが、俺は君の側に立つよ」
「……そんな風に言われても、簡単に信じきれるわけじゃないんだけど」
彼女は視線を落とし、つま先で床をトントンと叩く。わずかに赤らんだ頬は、いつものツンとした態度の裏にある乙女らしさを隠しきれていない。
「それでも、心が軽くなったのは事実よ。こんなの、王都にいたときには考えられなかった。誰も私を本気で助けようなんてしなかったから……。でも、あなただけは違うのね」
「俺はただ、君を放っておけないって思っただけさ。君が演じていた“悪役令嬢”の姿じゃなくて、本当の君を見てしまったから。もう目を背けられないんだよ」
「……そっか。それなら、まぁ、別に嫌じゃないかも」
やや拗ねたような声に、俺は思わず安堵の笑みを漏らす。先ほどまでの回想を聞いて、彼女がいかに孤独な戦いをしてきたかを痛感した。そんな辛い道を歩んできたのに、まだくじけずにこの田舎で踏ん張っているのだから、俺はますます彼女を尊敬してしまう。
「なあ、カトレア。今はここにいて、大変かもしれないけど、ゆっくり心を休めてほしい。王都に戻るも戻らないも、君の自由だけど……どっちにしろ、俺が支えるから」
「……あまり期待されても困るわ。私が感謝してるなんて思わないで。別に“あなたのおかげで生きる気力が湧いた”とか、そんなドラマチックな話じゃないし……」
「わかってる。けど、それでも俺は君の味方だから」
その言葉に、カトレアはほんの少しだけ瞳を潤ませながら、ぎこちなく笑う。
「あなたのその誠実さ、王都だと利用されるだけなのに……ここでは通用するのね。まあ、悪くはないかもしれないけど」
「おいおい、相変わらず言うね。でも、そういうところも嫌いじゃないよ」
「ば、馬鹿言わないで。……私のこういう性格がいろいろ誤解を招いたのに。ほら、変なこと言ってないで、もう部屋に戻るわよ。夜風で風邪引くと面倒だし」
「はは、そうだな。ところで……さっき言ったけど、君の本当の姿を知ったからこそ、俺はこれまで以上に守りたいって思ってる。だから……ありがとう」
「……あぁもう、さっきから“ありがとう”とか“守りたい”とか、聞いてるだけで恥ずかしいんだけど。褒められても嬉しくなんかないんだから」
ツンツンとした態度を崩さない彼女が、最後にわずかに唇を震わせ、「……でも、その……ありがとう」と小さく囁いた。言葉に出るか出ないかの微かな音量だったが、俺にははっきりと聞こえた。胸がどきりと高鳴る。
そこには孤独な戦いを強いられた公爵令嬢の姿はもうない。少なくともいま、ここでは“守られる側”として素直に甘えるわけではないけれど、どこかで俺を信頼し始めてくれているのだろう。王都を離れても、なお背負う傷がある彼女。それを支えたいと思う自分。
「……行こうか。もう夜も深いし」
「そうね。今日はちょっと感傷的になりすぎたわ」
カトレアはそう言いながら、軽く目元を押さえて立ち上がる。その目に一瞬だけ涙の輝きが見えた気がしたが、彼女はすぐに視線を逸らして歩き出した。俺もそれに続く形で、テラスから屋敷の奥へと足を運ぶ。
振り返れば、夜空に星が瞬いている。互いに不安や責任を抱えながらも、ここでの生活が少しずつ温かな色で満たされていくように感じる。王太子の陰謀や家の問題は消えてはいないが、いまはこの瞬間の穏やかさを大切にしたかった。
そして、二人で並んで廊下を進む。その胸の内には、ほんの少しの安堵と大きな決意が同時に宿っている――本当の意味でお互いを理解したいと願うからこそ、これから先どんな苦難が待ち受けようとも、一緒に乗り越えていけるのではないか。そんな幸福な予感が、夜の屋敷をやさしく包み込んでいた。




