第10話 カトレアの過去②
そこは薄暗い照明のともるテラス。夜風がかすかに吹き、遠くで虫の鳴く声が聞こえる。アレンの前で、カトレアは椅子に腰掛け、静かに目を閉じたまま過去を語り始める。――これは彼女の記憶。第三者には見えない景色が、カトレアの内面で鮮明に広がっていた。
かつてのレーヴェンシュタイン家は、その名にふさわしく王家との縁を深めようとしていた。
当主である父は、王太子リシャールとの結びつきを最大の出世と考え、なんとしてでも王家の信用を得たいと動いていた。だが、レーヴェンシュタイン家には大きな弱点があった。内政で失敗し、多額の借財を抱えているという噂、さらに近隣のライバル貴族との軋轢もあって、家の威信が揺らぎ始めていたのだ。そこで父が取った手段が“カトレアを王太子に差し出す”形での婚約だった。
まだ幼かったカトレアは、それが自分の幸せな未来などではなく、家を守るための“駒”としての扱いだということをうすうす悟っていた。母は淡々と「レーヴェンシュタイン家の長女として義務を果たしなさい」と言い、兄は「悪いようにはしないから、黙って父の言うことを聞け」と優しい言葉をかけるだけ。反対することなど許される雰囲気ではなかった。
それでも、当時のカトレアには小さな希望があった。王太子リシャールは表向き穏やかで聡明な人物と評判だったし、もしかすると友好的な関係を築けるかもしれないと淡い期待を抱いたのだ。しかし、王太子と初めて公の場で顔を合わせたとき、彼が見せた笑みはどこか冷たい光をはらんでいた。
「君は家のために何でもしてくれるのかな?」
リシャールのその一言に、カトレアはドキリとした。まるで自分が“利用できる人間”かどうか試すような口調だったから。父も兄も望むところだとばかりに、“高慢で家の威厳を体現する令嬢”をカトレアに演じさせた。
実は、彼女が王都で高飛車な態度を取っていたのも、“レーヴェンシュタイン家は弱みを見せられない”という父の命令によるところが大きい。政略結婚の体裁を守るために強気に立ち回り、周囲を黙らせる。――そうして生まれたのが、“高慢で気が強い令嬢カトレア”のイメージだった。
しかし、実際のカトレアは深い孤独を感じていた。王太子のそばにいるために虚勢を張り続ける日々、自分の意志など二の次で、ただ家の未来を背負っているという重圧。それを見せる相手もいないまま、いつしか“悪役令嬢”のような悪評が広まっていった。
周囲の貴族たちは、“レーヴェンシュタイン家の娘は強情で王太子すら困らせる存在”と面白おかしく噂し、ライバル家の者はさらに火に油を注いだ。「高慢」「傲慢」「王太子の寵愛を得ようと陰湿に妨害を企む女」――そんな根も葉もないデマまで流され、カトレアが抗弁しようとしても誰も聞く耳を持たなかった。
一方、婚約当初、王太子リシャールは多少の興味を抱いているように見えた。もしかすると、“高慢な振る舞い”が刺激的に映ったのかもしれない。けれど、徐々にリシャールは別の目的を持ち始めた。彼の狙いは、王位継承をより磐石にするため、レーヴェンシュタイン家の権力を利用しようとしただけだったのだ。
「君はいつまでそんな態度でいられるのか、興味深いね」
ある日の舞踏会で、リシャールがそう囁いたとき、カトレアは背筋が凍る思いをした。王太子の目は、まるで“お飽きごっこ”に飽きた子どものような冷たい好奇心だけが宿っていたから。やがて彼は別の女性に惹かれていき、カトレアを糾弾の的に仕立てるようになったのだ。
悪評は追い風を得るように広がり、ライバル貴族や妬む令嬢たちが「あの女こそ国を乱す存在」と吹聴する。レーヴェンシュタイン家は決して無力ではなかったが、王家の意向には逆らえない。父や兄たちもカトレアを表立って守ることはできず、「耐えろ。今は我慢の時だ」と言い続けた。
しかし、その我慢の果てに待っていたのは、あの夜会での婚約破棄という結末だった。こうしてカトレアは世間の前で屈辱を味わい、同時に自分の家にも見放されたような状況に陥ったのだ――。
物語を語り終えたかのように、カトレアは静かに口を閉じる。表情は少し苦しげだが、どこか吹っ切れたようにも見える。あの王都の喧騒から逃れ、この田舎の屋敷で過ごす時間が、彼女に懐かしさと切なさを同時に呼び起こしているのだろう。
「……こうして言葉にするのは、初めてかもしれないわ」
小さく震える声。過去の痛みを呼び起こすのは決して気持ちいいことじゃない。しかし、そこには確かな解放感が漂っていた。まるで“悪役令嬢”の仮面を一枚ずつ剥いで、素の自分を見せ始めているようだった。
家族との確執は、決して単純なものではない。父や兄も家を守るためにカトレアを王太子に差し出したという事情があり、彼女を本気で憎んでいたわけではない。けれど、その結果カトレアは王太子に弄ばれ、周囲のデマに塗りつぶされ、一人で痛みに耐えるしかなかった。
「……あなたの話を聞いていると、王都での“高慢さ”も仕方ないように思える。家のために自分を殺して演じてたんだな」
そうアレンが呟くと、カトレアは苦笑を浮かべる。恥ずかしいのか、悔しいのか――その表情から読み取りにくいが、間違いなく素の感情が混ざっている。
「ええ、誰かに話したところで笑われるだけだったから、もう無理してたんでしょうね、私。王太子に捨てられた今となっては……家にも見捨てられたも同然。バカみたい」
自嘲する声に滲む孤独。王都で“家のため”に演じる日々が、どれだけの苦しみを生んだのかは想像に難くない。彼女は王宮で高慢な悪役を引き受けるしかなく、周囲の妬みや侮蔑を一身に浴び、それを正当化するための“家の威信”を必死に守っていたのだ。そうした背景を聞いて、外から見える“悪役令嬢”の姿がどれほど表面的だったかがわかる。
「……でも、ここに来て少しは気が楽になった。あんたの領地は王都より狭いし退屈だけど、陰口や派閥争いがないだけマシよ」
その独白に、ほのかな温もりがこもっている。王都では決して聞けなかった言葉だろう。彼女は何度も自分に言い聞かせるように「私はもう、あの“レーヴェンシュタイン家の傲慢な令嬢”じゃない」と呟いているのかもしれない。
「つまり、俺があの夜会で声を上げたのは、無駄じゃなかったってことか?」
「……ふん、あなたがどう思うかは勝手だけど、私としては少なくとも救われた部分もあるわ。とりあえず、あの場で黙っていたら、私はもっと酷い仕打ちを受けていたかもしれないし」
そう言いながら、カトレアはやや照れ隠しのように目を逸らす。むしろ、「ありがとう」と言いたそうで言えないもどかしさが伝わってくるのが微笑ましい。
「……ま、話すだけ話してしまったから、今さら隠すつもりもないわ。でも、アレン。これ以上踏み込んだら許さないから」
「わかった。強要しないよ。……ただ、君がどんな過去を抱えてるか少しわかっただけでも、俺は嬉しい。ありがとう」
「べ、別に。私だって、黙ってるのも疲れただけ。あなたに感謝しろって言われたわけじゃないし……」
そう言いつつも、カトレアは安心したように息をつく。その表情には、まるで長く続いた仮面劇を一瞬下ろしたかのような落ち着きがあった。演じる必要も、家のために踏ん張る必要もないこの田舎だからこそ、本当の自分を少し出してみてもいいのかもしれない――そう思わせる。
こうして、“婚約破棄された公爵令嬢”の裏に隠された重い過去が、ほんの少しだけ語られた。その先に待つものは何か。父や兄がどう動くのか、王太子が次にどんな手を打つのか――不確定要素は山ほどある。けれど、今はこの夜の穏やかな時間に溶け込みながら、二人の距離はまた一歩近づいていく。
カトレアはゆっくり立ち上がり、テラスの手すりに寄りかかって外を見る。たとえ王都での過去がどんなに苦くとも、この場所ではそれを一時的に忘れられるかもしれない。そして、彼女の“真実”を聞けたアレンも、まるで彼女の苦しみを共有するように寄り添う。
冷たい夜風が二人の頬を撫でていく中、カトレアはそっと瞳を閉じる。重たい回想の先に、微かな希望が見え隠れしているのだろうか――そんな思いがテラスを包み込む。王都を離れた田舎の夜が、二人を静かに見守っているように感じられた。




