第10話 カトレアの過去①
翌日の午後、屋敷の一角で差し込む陽光を眺めながら、俺はカトレアの姿を探していた。気づけば彼女と行動を共にすることも多くなったし、なんだか少しずつ心を開いてくれているようにも感じる。とはいえ、いまだにツンツンした態度は変わらないし、王都での出来事を詳しく話してくれたわけでもない。俺としては、彼女がどんな過去を背負っているのか、そっと聞いてみたかった。
「いた……」
廊下を曲がって庭に面するテラスへ出ると、ちょうどカトレアがテーブルに腰掛けて本を読んでいた。外套を羽織っているのは、まだ春先の冷たい風が名残を残しているからだろうか。俺に気づくと、彼女はほんの一瞬だけ表情を緩めるが、すぐにいつものツンとした雰囲気に戻る。
「何よ、その顔。私を探してたの?」
「ま、そんなところ。……今、いいかな? ちょっと話したいことがあって」
「ふん、また村の視察でも行くつもり? 今日は私、疲れてるから遠慮しておくわ」
「ちがうちがう。散歩じゃなくて、君自身のことを知りたいっていうか……もし嫌じゃなかったら、少し話してくれないかな?」
俺がそう切り出すと、カトレアは一瞬だけ動きを止める。まるで意表を突かれたような表情を浮かべて、それから「私のこと?」と低くつぶやいた。ここで「興味ない」という言葉が返ってきたらどうしようかと思ったが、彼女は意外にも本を閉じて顔を上げる。
「……急にどうしたの? 私が何か抱えているとか、そんな風に思ってるわけ?」
「うん。最近の様子を見て、君がずっと悩んでいるというか、王都のこと以外にも何かを抱えている気がしてね。もしよかったら、教えてほしいなって思ったんだ」
「……私の過去なんて、あなたに話したところで何になるっていうの? 王太子殿下との婚約破棄が全てだと思ってるかもしれないけど、そこに至るまでには色々とあるのよ」
彼女の言葉に宿る一抹の緊張感。その鋭い瞳が、俺を探るように見つめてくる。俺はそこから目を逸らさずに、できるだけ穏やかに微笑む。
「確かに、何になるかはわからない。けど、俺は君のことをもっと知りたいし、力になれるならなりたいんだ。今まであんまりにも“お互い遠慮”し合いすぎたって気がしてね」
「遠慮、か……王太子殿下に捨てられた私なんかを気遣ってくれるのはありがたいけど、あなた自身も追い詰められてるのよ? 私を守るとか言っておきながら、自分の領地も危険にさらして……」
「それが俺の性分なんだ。君が逃げ場所を失ってるのに、見過ごすなんてできなかった。今だってそうさ。君が何を抱えてるのか知りたいし、もし辛いなら助けたいんだ」
「本当にお人好しね、あなた……。でも、正直、そこまで言われると悪い気はしないかも」
カトレアは一度目を伏せ、唇をきゅっと結んだ。しばし沈黙が流れ、冷たい春風がテラスの空気を揺らす。俺は胸の奥でドキドキしながら、彼女の答えを待つ。拒絶されても仕方ないと思っていたが、カトレアがそっと息をつく気配がする。
「……どうせ隠し通せるものでもないし、今さら体裁を気にする相手でもないわね、あなたは。わかったわ。話してあげる。私が王太子殿下の婚約者となった経緯や、その裏にある家の事情……全部とは言わないけど、ある程度は」
「本当に? ありがとう。無理しないで、言いたくないことは伏せていいから」
「ふん、何を勘違いしてるのかしら。別にあなたのために話すわけじゃないわ。ただ、私も誰かに聞いてほしい気分になってきたのよ。田舎の静けさがそうさせるのかもしれないけど」
そう言いながら、カトレアはツンと顔をそむける。けれど、頬がわずかに赤いように見えたのは気のせいじゃないだろう。彼女のプライドが高いのはわかるが、“誰かに自分の思いを打ち明けたい”と感じているのかもしれない。
「じゃあ、座って話そうか。ここだと風が冷たいし、中に入ろうか?」
「大丈夫。ここでいいわ。外の空気を吸いたい気分なの。少し長くなるわよ……覚悟して」
カトレアは立ち上がり、テラスの縁に寄りかかって庭を眺める。俺もそれにならって彼女の隣に立ち、少し距離を取りながら耳を傾ける準備をする。さっきまでおしゃべりしていた小鳥が、いつの間にか飛び去って庭はやけに静かだ。
「……私が王太子殿下の婚約者になったのは、もう数年前。それは家の事情と父の思惑が絡んだ、いわゆる政略結婚だった。でも、その裏にはもう一つ、私が背負わされた“負債”みたいなものがあったの」
「負債……?」
「ふふ、まだ始まりよ。私の家、レーヴェンシュタイン家は王家と密接な関係を築いていたけど、内情を知れば事情が変わるわ。……まあ、そのへんから話したほうがいいかしらね」
カトレアは小さく息をつき、どこか決心を固めたように背筋を伸ばした。俺はすぐ近くに彼女の横顔を見ながら、鼓動が早まるのを感じる。深く踏み込む話になるほど、彼女との距離が一気に縮まるようで、期待と不安が入り混じった感情に駆られる。
「それなら、落ち着いて聞くよ。君の抱えてきたことが、どんなものか――少しでも力になれればいいけど」
「……力になるかどうかは、話を聞いてから言いなさい」
ツンとしながらも、彼女の声は僅かに震えている。きっと、言葉にするのが怖い部分もあるのだろう。俺は気づかれないように拳を握りしめ、小さく頷いて返す。
「わかった。……ありがとう。話してくれるのを待ってるよ」
「ええ。……それじゃあ、少し長くなるわよ」
そう言い残して、カトレアは静かに夜風を含む空を見つめる。あれほどギスギスしていた王都から逃げ出し、少しずつ穏やかになった日々。それでも、彼女の過去は決して消え去らない――いま、その封印が解かれようとしている。
俺はその横顔を見守りながら、次に出てくる言葉をじっと待つ。カトレアのここまでの態度や言動からして、きっと重い秘密や辛い事情があるのだろう。けれど、王太子に捨てられたこと以上に深い傷を負っている可能性すらある。少し怖い気持ちもあるが、俺はそれに立ち向かいたいと思う。
(王都での婚約破棄が、彼女にとっては全ての終わりではないはず)
静かな夕闇がテラスを覆い始める中、俺は耳を澄ませる。カトレアの声はまだ続かない。手すりにそっと置かれた彼女の指先が小さく震えているように見える。それを見て、思わずそばに駆け寄りたくなるが――彼女のプライドを考えて、ぐっと踏みとどまる。
少し長くなるわよ、と言ったカトレアの物語。その幕開けを、俺は息を詰めて待った。彼女が背負う過去――それは、俺たちの関係を一段と深めるきっかけになるかもしれない。王都を離れ、田舎の静かさに身を置いているからこそ、彼女は今、口を開く決心をしてくれたのだろう。
沈黙の先にある、カトレアの本当の姿。その扉は、もう少しで開かれようとしていた。




