第9話 領地での日々③
夕暮れが落ち着き、空が茜色から紺色へと移り変わり始めた頃、俺は屋敷の廊下をゆっくり歩いていた。朝からの仕事を終え、荷物の整理や領民とのやり取りも一段落。ほっと一息つこうと思ったとき、ちょうどカトレアの姿が視界に入った。
「お疲れ、カトレア様。こんな時間まで起きてるなんて珍しいな」
廊下の窓辺に寄りかかるようにして外を見ていた彼女は、俺の声に軽く振り向く。いまだツンとした表情は崩れていないが、その瞳には朝とは違う、穏やかな光が宿っている気がする。
「……特にすることもないし。王都じゃ夜会やら何やらで賑やかだけど、ここは静かだから、ついぼんやりしてしまうわ」
「まあ、田舎は夜が早いからな。みんな仕事を終えると一家団欒か、さっさと寝ちゃうから。退屈かもしれないけど、のんびりするにはいいんじゃない?」
「ふん……まだ慣れてはいないけど、嫌いじゃないかも」
素直じゃない物言いではあるものの、王都のギスギスとした夜会に振り回されていたころとは雰囲気が違う。俺はそれを感じ取って、少しだけ胸が温かくなる。
「ねえ、そろそろ晩飯の時間だけど、どうする? 食堂に向かうか、それとも……庭でも回る?」
「庭? 暗くなるわよ?」
「うん、ちょっと散歩するだけ。夕方の庭園が意外と綺麗なんだ。昼間とは違う静かな雰囲気があってさ」
「……そう、じゃあ少し付き合ってあげる。散歩なら退屈しないし、田舎の夜はどんな感じか見てみたいわ」
そう言って、カトレアは俺の横を通り抜ける。柔らかな香りがわずかに鼻をくすぐり、心臓がドキッとするのをこらえながら、俺は急ぎ足で並んだ。
屋敷を出ると、庭園に夕闇が降り始めている。木々のシルエットが少しずつ長く伸びて、空を群青色が染める。王都の煌びやかな夜会と違い、ここには虫の音と葉の揺れる音が静かに響くだけ。カトレアは静かに息をつき、夜気を感じながら歩みを進めた。
「……変わってるわね。夜会や舞踏会の喧騒がないって、こんなにも落ち着くものなの?」
「だろ? 俺はこの雰囲気が好きなんだ。何もないけど、それが心地よくてさ。慌ただしく人の目を気にする必要もないし」
「王都では、誰かに見られている気がいつもしてた。噂話や駆け引き……そういうのから解放されるのは、なんだか変な気分だけど、悪くないわ」
彼女が正直に言葉を漏らす姿は、少し新鮮だった。いつもプライドを前面に出していたが、田舎での生活を通じてほんの少しずつ心を開いてくれているのかもしれない。俺は少し迷いながらも、声をかけてみる。
「ここでの生活は大変かもしれないけど、俺としては、あなたがいてくれて心強いと思ってる。正直、王太子殿下を敵に回したのは重荷だけど、あなたが一緒に逃げてくれたことで……助かってるんだ」
「は? それ、どういうことよ。私がいるから余計面倒じゃないの?」
「……まあ、確かに面倒なこともあるけど、気持ちの上では楽になったんだ。守りたいと思う人がいてくれると、孤独じゃないって感じがするし」
何気なく言ったつもりの言葉だが、カトレアは目を丸くして「守りたい……ね」と呟く。そして、すぐに視線をそらしてツンとした口調で応じた。
「ほんとに勘違いしないでね。私は別にあなたを頼ってるわけでも、甘えてるわけでもないの。ただ……ここが王都よりは落ち着けそうだからいてあげるだけよ」
「うん、わかってる。君のプライドを傷つけたいわけじゃないから安心して」
「ふん、ならいいわ。でも……そうね、思ったよりここは住みやすいのかもしれない。騒音もないし、領民もうるさくないし」
少しだけ照れ隠しのように唇を尖らせている彼女を見て、俺は自然に笑顔がこぼれる。二人とも寂しい思いを抱えて王都を後にし、それぞれが抱える不安や責任を背負っている。しかし、こうして夕闇の庭を歩いているだけで、まるでその苦しみが薄れていくような気がした。
「……そういえば、もしこのまま王都に戻れなくても、私はそれでもいいかも……って思ったりしない?」
冗談めかして問いかけようとしたら、先に彼女が口を開いた。まるでこちらの思考を読んだみたいに、「もしこのまま王都に戻らないとしたら……」という言葉が紡がれる。
「……え?」
驚いて言葉を失う俺を、カトレアはちらりと横目で見やる。夕日の名残が彼女の頬をほんのり赤く染めているように見えた。
「別に深い意味はないの。王都に帰るって言っても、あんな酷い仕打ちに遭った後じゃ、居場所があるかどうか……わからないし。それなら、ここでのんびり過ごすのも悪くないかなって、思ったりしただけ」
「そ、そっか……カトレア様がそう思ってくれるなら、俺は嬉しいけど」
「勘違いしないでってば。私は“貴族の誇り”もあるし、あまり長く田舎にいるつもりはない。けど……その、今はまだ王都に戻れない状況だし、落ち着いてるここが意外と心地いいの」
「意外と心地いい……なんか嬉しいこと言ってくれるな」
素直になれない彼女の言葉に、俺はほのかな幸せを感じる。彼女には振り回されっぱなしだけど、それでもやはりこの田舎で一緒に過ごす時間が、少しずつ二人の距離を縮めている気がする。
「勝手に喜ばないで。まだ戻りたくても戻れないだけかもしれないんだから。王太子の動向とか、父たちがどう動くか次第で、状況はまた変わるわ」
「うん、それはわかってる。でも、そういう理由であっても、ここに君がいてくれるのは俺にとってありがたい。たしかに大変なこともあるけど、一人じゃないって思えるのは、ものすごく心強いよ」
「……ふん、ベタベタしないで。恥ずかしいじゃない」
カトレアはぷいっと顔を背けるものの、その頬の赤みは増している。俺がそれを見てほんのり笑うと、「笑わないでって言ったでしょ」と小声で抗議してくる。王都では見せなかった、こんな可愛い仕草がここでは当たり前のように出てくるのが微笑ましい。
「悪い悪い。でも、なんだか幸せな気分になっちゃうんだよ。……もし本当に王都に戻れなくても、俺は構わないんだけどな。君がここでいいって思ってくれるなら」
「なにそれ……わたしをずっとこの田舎に閉じ込めるつもり? 馬鹿じゃないの?」
「違う違う、そういうんじゃなくて、ほら、なんか『二人でのんびり暮らす』みたいなのも悪くないな、ってね」
「……はあ、何を言い出すかと思えば。ほんと、勘違いしないで。私はまだ“帰らなくちゃ”って気持ちもあるし、王太子への恨みも消えたわけじゃない。ここに骨を埋めるとか、そんな極端な話じゃないから」
「わかったよ。ごめんね、変なこと言って」
でも、カトレアの口調には怒りよりも照れが混ざっているように感じられた。夕闇が一層深まり、庭園の木々が黒いシルエットを描き始める中、俺たちは自然と歩を止める。いつの間にか互いの存在を意識するように、視線を交わし合う形になった。
「……そろそろ屋敷に戻ろうか。ちょっと涼しくなってきたし、風邪引いちゃ困るからね」
「そうね。わたしも空腹だし。あなたに毎日ご飯のお世話をされるなんて、思いもしなかったわ」
「ふふ、俺の領地は料理はシンプルだけど美味しいよ。次はどんなメニューが出るか楽しみだろ?」
「誰が楽しみにしてるって言ったの? ……まあ、悪くないけど」
また棘のある物言い。でも、その目にはささやかな期待と安心が浮かんでいる気がする。今はまだ二人で田舎の風景を眺めて、ぎこちないながらも心を通わせている――そんな時間が心地よかった。
「そっか……じゃあ、戻ろう。明日もいろいろあるから、ゆっくり休もうな」
「ええ。そうね。あなたがいてくれるなら、私ももう少しだけ頑張ってみるわ」
何気ない一言。でも、そこに滲む彼女の素直な気持ちを感じて、俺は思わず胸がドキッとした。田舎で二人が幸せに暮らす可能性――そんな甘い空想が一瞬頭をよぎるが、同時に、カトレアの過去や王都の現実がまた不安を煽る。でも、今はこの穏やかな夕暮れを大切にしたい。
「……ありがとう」
短く呟いた俺の言葉に、カトレアは何も言わず少しだけ頷く。互いの存在を少しずつ意識し合いながら、俺たちは庭園を後にし、屋敷の灯りへと帰っていく――そんな幸せそうなシルエットを残して、夜が静かに降りてきた。




