第1話 夜会への招待②
王都の城壁が遠くに見えたとき、俺は馬車の窓から身を乗り出しかけるほど興奮していた。大都市だとは聞いていたが、これほど広大な街並みが眼前に広がるなんて思いもしなかったからだ。背の高い城壁の向こう側には、まるで迷路のようにびっしりと建物が詰まっている。煙突からは白い煙が立ち上り、所々で鐘の音がかすかに響いてくる。
「す、すごい……! あれが王都の規模か。俺の領地とは比べものにならないな」
俺は御者台に向かって率直な感想を漏らす。すると、御者の初老の男性は笑い混じりに返事をくれた。
「アレン様、初めて王都へいらっしゃるんですか? いやあ、びっくりしますよねえ。ここの市場なんて、どんなものでも揃いますから。実際に足を踏み入れると、なおさら圧倒されますよ」
「そ、そうなんだ。買い物をする時間があるかはわからないけど……ちょっと市場も見てみたいな」
馬車が門を通り抜けると、まるで“お祭り騒ぎ”と形容してもいいほど人通りが多い。行き交う馬車はもちろん、荷車を押す行商人や、露店をひやかす客らで溢れかえっている。俺の家がある地方とはまるで空気が違う。色鮮やかな布や果物が所狭しと並べられ、路上で談笑する人々の声は途切れることがなかった。
「なるほど……確かに王都はすごい活気だ。これが日常だなんて、住んでる人はきっと退屈しないだろうな」
窓から手を出しかけた瞬間、思わず自分の服装を気にする。男爵家の当主となった今、外であまり無作法な仕草をするのはやめたほうがいい。何より、王都の貴族たちの目が光っているかもしれない。それにしても、地方にいるとき以上に「貴族」という存在を意識させられてしまう。
やがて馬車は人波を避けるように裏通りを抜け、こぢんまりとした宿へ横付けされた。ここは以前に父が利用していたという由緒正しい宿らしく、下級貴族でも比較的気軽に泊まれるらしい。とはいえ、地方出身の俺には十二分に豪華に見える。
「到着しましたよ、アレン様。しばらくの間、こちらに滞在されるんですよね?」
「うん、助かったよ。道中ありがとう」
御者に礼を言って馬車を降りると、宿のスタッフらしき男性がさっそく出迎えてくれた。品の良い制服を着こなし、深々と頭を下げる様子に、やや恐縮してしまう。
「ようこそお越しくださいました。男爵アレン・クレストン様でいらっしゃいますね。お部屋はすでにご用意しております」
「そ、そう。よろしく頼む」
俺は宿のスタッフに続きながら、少し緊張を覚える。男爵家の名を名乗ることにも慣れていないのに、ここではしっかりと相応の待遇を受けるわけだ。そう考えると、いよいよ王都に来たんだなあと実感が沸いてくる。
部屋に案内され、中へ足を踏み入れると、木目調の落ち着いた内装とふかふかのベッドが目に飛び込んだ。地方の屋敷にもそれなりに贅沢な調度品はあったが、王都の洗練された雰囲気とはやはり違う。部屋にふわりと漂う香油の香りに、軽いめまいすら感じる。
「何かご要望がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「ありがとう。今のところは大丈夫だから、ゆっくりさせてもらうよ」
スタッフが退室して扉が閉まった瞬間、俺は思わずその場に腰を下ろした。長旅の疲れもあるが、初めて目の当たりにした王都独特の華やかさが一気に押し寄せてくる。胸の奥で、新たな世界に飛び込んだ興奮と、不慣れな環境への不安が入り交じっていた。
「さて、まずは……これを確認しないとな」
俺は荷物の中から“夜会の招待状”を取り出す。王都へ来た目的はほとんどこれと言っても過言ではない。王太子リシャール殿下主催の夜会――貴族の社交界では誰しも憧れる舞台だ。けれど、俺のような下級貴族が堂々と顔を出していいのかという疑問は、まだ根強く残っている。
「日にちは……明後日か。さすがにすぐ明日とか言われなくて助かった。少しは心の準備ができそうだ」
招待状の紙質は高級感にあふれ、金色の装飾が施されている。手にしただけで指先が震えそうになるのは、ただの緊張だろうか。それとも、この夜会が自分の人生を大きく変えるかもしれないという予感のせいなのか。
「ふむ……『高位貴族との人脈がないと苦労する』って話もあるし、こういう場での振る舞いがあまりに下手だと、噂が広がるのも早いとか……」
途中の街道で出会った行商人や、さっき宿にチェックインする際に会話を耳に挟んだ内容を思い出す。どうやら夜会というのは、ただ踊って楽しむだけではないらしい。貴族同士の権力争いだとか、婚約話だとか、果ては根も葉もないゴシップまで飛び交う修羅場のような場面もあると聞く。
「高位貴族はやっぱり……公爵とか侯爵とかいるんだろうな。ややこしい人ばかりだったらどうしよう……」
思わずため息が出る。そんな俺の耳に、一瞬だけ気になる単語が蘇ってきた。さっき宿のスタッフと他の貴族客が小声で囁いていた話の中で、“カトレア”という名がちらっと聞こえたのだ。詳しいことまではわからなかったが、その貴族客いわく「最近、公爵令嬢カトレアがどうのこうの……」と、やけに険悪そうな口調だったのを覚えている。
「カトレア……どこかで聞いたような、聞いてないような」
まあ、今の俺にとってはあまり関係のない話かもしれない。どうせ上流階級の令嬢ならば、俺のような下位の男爵家当主とは縁がないだろう。それに、王太子殿下の夜会だというのに、余計な噂話を仕入れても仕方がない。とにかく、まずは当日に恥をかかないための準備が先決だ。
「王都に着いたばかりで圧倒されっぱなしだけど……よし、腹ごしらえでもして気持ちを落ち着かせよう」
そう思い立ち、立ち上がったものの、扉の向こうではすでにスタッフが待機しているだろう。それだけで少し気が重い。けれど、せっかくの王都暮らしだ。美味しい料理が山ほどあるはずだし、意外とここで新鮮なものに触れれば、気持ちが晴れるかもしれない。
「緊張してても仕方ないし、まずはちょっと散策してこよう。市場も見たいし、夜会のために新調する服も必要かもしれないしな」
そう自分に言い聞かせ、俺は部屋を出る。通りを歩きながら、大きな屋敷や高級そうな店の看板にちらちらと目を奪われるたびに、心の中で「へえ……」「うわ、すごい」と小声を漏らす。地方育ちの俺には、何もかもが新鮮なのだ。
しかし、頭の片隅にはやはり「この夜会を乗り切れるのか?」という不安がちらついている。無理もない。貴族同士の駆け引きは、俺の得意分野じゃない。けれど、ここに来てしまった以上、もう引き返せない。上流社会の常識に耐えられず、すぐに逃げ帰るような真似は絶対にしたくない。せめて格好だけでも、それなりに見られる領主でいたいと思う。
「よし、やるしかない……! 男爵家としての務めを果たしに来たんだからな」
大通りに面した市場の喧噪に混じると、再び胸が高鳴った。地方ではなかなか見かけない珍しい果物や香辛料の香りが鼻をくすぐり、カラフルな織物や装飾品が視界を彩る。ここが俺の新たな舞台――そう自分に言い聞かせるたびに、体が少しずつ前を向いていくのがわかる。
父の跡を継いで男爵家を背負ったからには、この国の中心である王都を肌で感じておかねばならない。それに、夜会でどんなことがあろうと、何かを得て帰る覚悟だ。高位貴族の世界は簡単ではないだろうが、俺なりに食らいついてみよう。
「とりあえずは宿を拠点に、夜会までの間に一通りの準備を整えて……そうだ、社交用の礼装とか、必要だよな」
自分に言い聞かせ、気持ちを引き締める。見知らぬ街を歩いているというのに、背筋が伸びるのは不思議な感覚だ。そして、遠くから聞こえる鐘の音が、俺を新たな物語へ誘っているかのようだった。ここから始まる日々が、穏やかであればいいのだけれど……そんな小さな祈りを抱きながら、俺は夜会に向けた第一歩を踏み出す。