第7話 領地での再会①
長旅の揺れに心身ともに疲れ切っていたころ、ようやく故郷の景色が見えてきた。クレストン領だ。王都を離れてから数日の道のりが過ぎ、馬車が小高い丘を越えると、なだらかに広がる田園風景が視界いっぱいに広がった。いくつもの畑がほのぼのとした緑に包まれ、遠くには低い山脈が連なる。王都の喧噪とはまるで違う、素朴で静かな空気が肌に優しく触れる。
「……ここがあなたの領地、なのね」
隣の席に座っていたカトレアが、馬車の窓から外を覗き込みながら小さくつぶやいた。まるで初めて訪れる異国を見渡すように、慎重な視線と軽い好奇心が入り混じっている様子だ。
「うん。王都ほど派手じゃないけど、俺にとってはとても大切な場所なんだ」
「まあ……思ったより、悪くないかも」
彼女がそうポツリと言ったのを聞いて、俺は思わず頬が緩む。口調こそ素直じゃないけれど、この田舎の風景を少しは気に入ってもらえたのだろう。旅の間ずっと疲れた顔をしていたカトレアが、いまはほんの少しだけ表情を和らげている気がする。
「馬車を降りたら、領民に挨拶していこう。しばらく不在にしてたから、皆心配してたはずだし……」
「……好きにすれば。私に挨拶なんて必要ないでしょうけど」
「そう言うなって。あなたのことも紹介したいんだ。いずれにしろ、一緒に暮らすことになるんだし」
「誰が“暮らす”なんて言ったの? ただ一時的に身を置くだけよ。勘違いしないで」
と、そこまでツンとしながらも、カトレアの視線は窓の外へ戻る。ぼんやりと伸びる田舎道の先に、ぽつぽつと家々が集まる領地の中心部が近づいてきた。小さな集落の向こうには、わがクレストン家の屋敷がちらりと見える。子どものころから慣れ親しんだ風景に、懐かしさがこみ上げる。
「おかえりなさいませ、アレン様!」
馬車が村の入り口に差しかかったところで、一人の老女が小さく手を振って走り寄ってきた。俺を覚えていてくれたらしい。馬車を止めて外へ降りると、その老女は嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「王都でのお仕事は済んだんですか? 久しぶりですねえ。そうそう、皆さんアレン様の帰りを心待ちにしていたんですよ」
「ただいま、セリナ婆さん。ちょっといろいろあって、だいぶ長居してしまった。心配かけてごめんね」
俺がそう挨拶すると、セリナは首を横に振り、「無事なら何よりだよ」と安心したように目を細めた。そのままカトレアへ視線を移し、不思議そうな顔をして俺に問いかける。
「こちらの綺麗なお嬢さんは……アレン様のご友人でしょうか?」
カトレアはその言葉にわずかに肩をすくめる。どうやら周囲から「友人」と呼ばれたことが気になるのか、少し眉をひそめている。けれど、セリナ婆さんの人懐っこい笑顔に害意はまったく感じられず、戸惑いが勝っているようだ。
「ええと、事情があってしばらく俺の屋敷に滞在してもらうことになったんだ。カトレア様……公爵令嬢だけど、いろいろあって王都を離れたいってことになってね」
「まあまあ、公爵令嬢だなんて……わざわざこんな田舎へようこそ。何もない所ですが、どうかごゆっくりしていってください」
「……その、ありがとう」
小さな声でお礼を言うカトレア。その表情はどこか緊張気味だけれど、不快そうではない。むしろ、こんな温かい歓迎に慣れていないのかもしれない。
「よし、まずは屋敷へ向かおうか。荷物を片付けたら、村の様子も見て回ろう」
「好きにすればいいわ。私は疲れてるから、あまり人前には出たくないの」
「それなら先に部屋を用意してあげるよ。とにかくゆっくり休んでほしい」
「ええ、助かるわ。……でも、あまりチヤホヤしないで。私は下級貴族の領地に来ただけなんだから、それ相応に扱われるのが普通だもの」
口調こそトゲトゲだけど、そのまま馬車から降りて足元を見回している姿は、明らかに慣れない環境に戸惑っているのがわかる。石畳ではなく土の道、風に舞う砂埃――王都では当たり前に行き届いていた清掃など、ここでは最低限しかなされていないのだ。
「……まあ、思ったよりは悪くない景色だけど、地味ね。王都とは比べものにならないわ」
「田舎だからな。でも、俺はこの静けさが好きなんだよ。ギスギスしていないというか、皆のんびり暮らしているし」
「ふん。あなたらしいわね」
カトレアはそう言いながらも、視線は村の人たちに向いている。遠くの方から「あれ、アレン様が帰ってきた!」という声が響き、子どもたちが駆け寄ってくる。俺は苦笑混じりに彼らの頭を撫でつつ、カトレアの方を向いた。
「ただいまー! おお、アレン様、おかえりなさい!」
「久しぶりだな、みんな。王都でいろいろあって遅くなったけど、またよろしく頼む」
「はい! それで……そちらのお姉さんは?」
子どもの素朴な疑問。慌てて俺が「一緒に来てくれた客人なんだ」と紹介すると、彼らは目を輝かせ、「うわあ、きれい!」と口々に言い始める。カトレアは予想外の反応に少しだけぎこちなく微笑んだ。
「こんにちは……?」
「お姉さん、きれいな髪してるね! お衣装もすごい! 王都の人?」
「え、ええ……そうよ」
緊張気味に答えるカトレアに、子どもたちは人懐っこい笑顔で返す。王都の社交界では見せなかったような表情が、彼女の唇の端にほんのわずか浮かんだ――ように見えた。
「ほらほら、カトレア様が困ってるだろ。後でゆっくりお話してあげて」
「はーい、またあとでね、お姉さん!」
子どもたちが去っていくと、カトレアはため息をつく。けれど、その息には先ほどまでの刺々しさが少しだけ和らいでいる感じがする。大きなプライドを持つ彼女が、こんなに自然体の歓迎を受けるのは初めての経験かもしれない。
「……なんなの、ここ。王都とまるで別世界じゃない」
「田舎だからね。けど、悪い人はいないし、変に気を張らなくてもいいんだ。……もちろん、公爵令嬢としての矜持を保ちたいなら、それは構わないけど」
「矜持、ね。王太子殿下に捨てられた公爵令嬢なんて、大した矜持も残ってないわよ」
そう呟く声に、微かな悲しみが混じる。俺はそれを聞き逃さず、そっと微笑んでみせる。彼女の心にはまだ整理しきれない悔しさや痛みが残っている。でも、ここでなら、その痛みを少しは和らげられるかもしれない……そんな期待がある。
「さて、とにかく屋敷へ行こう。長旅で疲れたよな。部屋を用意してあるから、今日はゆっくり休んでいいよ。明日から、ゆっくり領内を案内するからさ」
「……ふん。別にあなたの案内なんていらないわ。自分で見て回る」
「はは、わかった。好きにしていい。でも困ったら遠慮なく言ってくれ。俺たちの領地だから、何か力になれることがあると思うから」
カトレアは目をそらしながら、「はいはい」と投げやりに言う。その仕草すらも、どこかぎこちなく可愛らしいと感じてしまう。王都での傲慢さとは違う、いまだ慣れない環境への戸惑いが見えるからだ。
そんなやりとりをしているうちに、クレストン家の屋敷が見えてきた。石造りの壁と木の暖かな風合いが混じった、地味だが落ち着いた造り。王都の華やかな邸宅とは比べものにならないけれど、俺にとっては家族同然の温もりを感じる場所だ。
「おかえりなさいませ、アレン様!」
大きな扉を開けると、使用人たちが揃って出迎えてくれる。皆がカトレアに目を向けて少し戸惑いを浮かべつつも、アレンの連れならと一応受け入れの態勢を見せている。どこか好奇の視線が混じっているが、王都のような辛辣な噂好きではない穏やかな雰囲気がある。
「ただいま。長く留守にしててごめんね。こっちは少し事情があってしばらく滞在してもらうことになった、カトレア様だ。みんな、よろしく」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
カトレアは緊張混じりに軽く頭を下げる。使用人の一人が「大変お疲れでしょう」と丁寧に言い、彼女を部屋に案内する準備を始める。カトレアは「ええ……よろしく」と呟きながらも、どこかまだ警戒している様子だ。
「それじゃあ、後でまた声をかけるから、今日はゆっくり休んでいいよ。俺も一応、領地をひと回りしてくる」
「勝手にして。別にあなたの予定なんて聞いてないし……」
素っ気ない口調だが、今の彼女は王都での刺々しさよりもだいぶ落ち着いて見える。田舎の温かい空気が、少しだけ彼女の心をほぐしているのかもしれない。俺はそんな彼女の背中を見送りながら、ようやく重荷が少し下りたような安堵を覚えた。
「いきなりは無理でも、少しずつこの領地に慣れてくれたらいいんだけどな」
そう呟きつつ、屋敷の外へ出ると、空は明るい光に包まれている。王都のギスギス感とは真逆の、のどかな空気が漂う我が領地。カトレアがここで何を思い、どう暮らすのか――すべてはこれからだ。俺は一抹のわくわくと大きな責任感を抱えながら、領民の挨拶に応えるために足を踏み出した。
(とにかく、最初は休ませてあげなきゃ。王都での苦労は相当だったに違いないんだから……)
この田舎の温もりが、カトレアの心を少しでも救ってくれたら――そんな思いを胸に、俺は領地の皆に「ただいま」と笑顔を見せる。王都の冷えきった空気とは違い、ここには確かに“俺の居場所”がある。そして、彼女にもきっと居場所を見つけてほしい――それが、いまの俺の願いだった。




