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月下の反逆者 ~王太子に逆らった青年と断罪された令嬢の逃避行~  作者: ぱる子


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第6話 地方への帰還③

 翌朝。

 王都の薄曇りの空の下、俺は宿の前で待機したまま、落ち着かない気持ちを抱えていた。昨日カトレアに声をかけたものの、断られたかに思えた。けれど、どうしても諦めるわけにはいかない。

 そんな思いで一晩を過ごし、朝早くに馬車を用意したが、果たして彼女は来るのだろうか――そんな不安が頭を離れない。


「……いや、やっぱり来ないよな。あれだけ強く断られたわけだし……」


 小声で独り言を呟きながら、馬車の車輪を点検してみる。多少古びてはいるが、領地までの長旅に耐えられる程度の整備はしてある。いつでも出発できる状態だ。それでも、乗ってくれるかどうかわからない相手を待つというのは、胸の奥が締めつけられるように苦しい。


「アレン様、一応準備はすべて整っております。あとはいつでも出発可能かと」


 御者の老紳士が遠慮がちに声をかけてくれる。彼は俺の付き合いが長いから、今の状況もだいたい察してくれているのだろう。その眼差しには「厳しい道のりかもしれないが、頑張ってほしい」という思いがにじんでいる。


「ありがとう。もう少しだけ待って……それでダメそうなら領地に戻ろう。あんまり王都に長居しても、良いことはなさそうだからね」


「かしこまりました。お任せください、いつまでもお供しますよ」


 そう言ってくれるのは嬉しいが、正直なところ、これ以上待っても無駄ではないかという疑いが頭をもたげてくる。昨日のカトレアの態度を思い返すと、断固拒否の雰囲気が強かったし、彼女自身のプライドを考えても、そう簡単に「下級貴族の領地へ」なんて決断しないだろう。


「……やっぱり、俺の思い上がりだったのかもな」


 ほとんど諦めを口に出しかけた、そのときだ。宿の角を曲がって、黒いドレス姿がひらめくのが見えた。見間違いなどではない、堂々たる姿勢でこちらを睨むように歩いてくる人物――カトレアだ。しかも小さな鞄を手にしているではないか。


「え……本当に来たのか」


 思わず心臓が高鳴る。呆然としたまま視線を向けると、カトレアはゆっくりと足を止め、少しだけ顎を上げて俺を見下ろすように言った。


「なにその顔。来てほしくなかったわけ?」


「いや、そんな……むしろびっくりして……」


「ふん、私だって好きであなたを頼るわけじゃないわよ。……正直、もうあまりに疲れちゃったの。あちこちで陰口を叩かれて、家の者もどこまで私を守ってくれるかわからないし……」


 少しうつむく彼女の表情には、隠しきれない疲労の色がにじんでいる。いつも高いプライドを振りかざすあのカトレアが、こうまで弱気になっている姿を見ると、胸が苦しくなる。


「それで、私にはもう……残された道がないのかもしれないって思ったの。殿下に捨てられた段階で、こんな形で私の人生が終わるなら、逃げるのも悪くないかなって」


「カトレア様……」


「勘違いしないでよ。私はあなたを頼りたくて来たわけじゃない。ただ……あんまりしつこく誘われたから、少しだけ気が変わったの。あなたの領地でしょ? どんな辺境だか知らないけど、ちょっと見てみるのも退屈しのぎにはなるかもね」


 まるで素直になれない子どものような口ぶり。しかし、そのツンとした態度の裏で、かすかな安心感も漂っているように見える。俺はそれを無理に指摘せず、できるだけ穏やかな表情で答えた。


「わかった。歓迎するよ。……本当に来てくれて嬉しい。ありがとう」


「だ、だから変に感謝しないで。私が行くか行かないかは私の自由よ。まぁ、あなたがそこまで言うなら、行ってあげてもいいわ」


 そう言いながらも、カトレアは小さな鞄を手にぎゅっと力を込めている。公爵令嬢にしては質素な装いであることが、いまの彼女の厳しい立場を物語っているのだろう。


「よし、それならもうすぐ出発しよう。荷物は少ない……んだね」


「誰かさんの領地なんて、あまり期待してないから。最低限の物だけ持ってきたわ。どうせあなたも荷物が多いわけじゃないんでしょう?」


「まあ、下級貴族だからね……。でも大丈夫、うちの領地は小さいけど居心地はいいと思う。きっと落ち着けるはずだよ」


 カトレアは「ふん」と鼻で笑いながら馬車に目をやった。しかし、その表情にはどこか安堵が混ざっているように思える。相当限界だったんだろう……と思うと、彼女に手を差し伸べる気持ちがさらに強くなる。


「……ほんと、意外と質素な馬車ね。仕方ないわ、こんなレベルだろうと思ってたし」


「ごめん、あまり立派なのは用意できなくて。でも、乗り心地は悪くない……はず」


「ふーん、ま、いいわ。もっと酷い代物かと思ったから、むしろマシに見える」


 そんなやりとりをしながら、俺はドアを開いて彼女を先に乗せる。カトレアは慣れた仕草でステップを踏むが、最後の一歩をややためらうように止まってこちらを振り向いた。


「……別に勘違いしないで。これはあくまで“どこかへ退避しておきたい”ってだけだから。あなたに懐柔されたわけじゃないわよ」


「もちろんだよ。むしろ、その意思を尊重したい。帰りたくなったら、いつでも言ってくれればいいから」


「ふん……。ま、言ったところで戻る先があるかどうか、わからないけどね」


 最後に小さく呟いた声は、本当に弱々しかった。彼女自身の置かれている境遇を思えば、気丈に振る舞うのもやっとなのだろう。俺は何も言わず、馬車に乗り込んでドアを閉める。御者に合図を送ると、ゆっくりと車輪が回り始めた。


「それじゃあ……王都を離れるよ。何か言い残すことはない?」


「別にないわ。ここには嫌な思い出ばかりになってしまったし。……あなたはどうなの? 本当はもう少し粘るつもりだったんじゃない?」


「いや、もう見切りをつけた。ここにいても、俺の力じゃ何もできないし。領地に戻ってこそ、俺なりに動けることがある……そう思うんだ」


 自嘲気味に笑うと、カトレアはわずかに頬を膨らませる。子どものような仕草が一瞬だけ見えたが、それが消えるのも早かった。


「ふん、どれだけ役立つかわからないけど、あなたがいれば少なくとも私ひとりきりではないものね。そういう意味では感謝してあげてもいいわ」


「ありがとう。力になれたらいいんだけど。俺もまだまだ未熟だから、完璧な守りを用意するのは難しいかもしれない」


「知ってるわよ、あなたなんて下級貴族でしょう? でも……頼るわけじゃないって言ったでしょ。そこを勘違いしないで」


 ツン、とそっぽを向いて窓の外を眺めるカトレア。その横顔は月夜の下とはまた違う、夕焼けのオレンジ色に照らされていて、なんとも儚い美しさがあった。頑なな態度を保ちつつも、どこか救われたような安堵を浮かべている気がする。


「まあ、その……領地に着いたら、いろいろ足りない部分もあると思う。でも、何か困ったら遠慮なく言ってほしい」


「言わなくても言うわよ。それが私のやり方だし。……ああ、こんな形で王都を離れるなんて、想像もしなかった」


 最後の一言には、やはり苦しみが込められていた。彼女も本当は王都で堂々と生きていたいはず。しかし、婚約破棄という形で未来を奪われ、あちこちから陰口を叩かれ、もう戻る居場所がなくなったのだ。


「カトレア様……」


「別に、同情されたいわけじゃない。私がこうなったのは自業自得だと思う人もいるでしょうし、私自身も、あまり上手に立ち回れなかったとは思うから」


「そうかもしれないけど、それでもあなたが全部悪いわけじゃない。少なくとも俺はそう信じてる」


「……変な人ね、あなた」


 呆れたように言いながらも、その横顔には微かな微笑みが混じっていた。ツンとした態度を保ちながら、どこかで俺を受け入れてくれている証だろう。馬車がゆっくりと王都の城門に向かうと、これまでの慌ただしい時間が嘘のように、穏やかな気配が車内を満たす。


「それじゃあ、行こうか。俺の領地、クレストン家へ――」


「ええ。私にはもう、残された選択肢なんてほとんどないのよ。勘違いしないでね、本当に頼りたくてついていくんじゃないんだから」


「もちろん。君のプライドを折るつもりはない。でも、もし辛いときは遠慮なく言って。俺にできることは協力する」


「ふん……ありがとう、とは言わないわよ」


 そう言って、カトレアは窓の外に目をやる。夕陽が地平線に沈み始め、空が橙色から紺色に変わりゆく微妙な時間帯。街並みを見つめる彼女の瞳には何が映っているのだろう。愛憎? 後悔? それとも一抹の希望?


「王都……こんな形で離れるなんて。いろいろ未練はあるわ。けど……仕方ないわね」


 別れを惜しむような小さな囁きが聞こえてきたが、俺はあえて何も言わなかった。どんな言葉をかけても、今の彼女には余計なお節介に映りそうだから。代わりに、心の中で「ここから新しい展開が始まる」と自分に言い聞かせる。


 馬車が城門をくぐり抜けると、次第に喧騒が遠ざかり、代わりに広がるのは夕暮れの田園風景。王都を離れるという事実が、嫌でも実感として押し寄せてくる。俺とカトレア、二人きりの旅――彼女のプライドと不安を抱えたまま、未知の道を進むのだ。


「さ、しばらくの間、俺の領地でよろしく頼むよ。何があっても、俺が守るから……少なくとも、君が望む限りはね」


「……ふん、勝手に決めつけて。私があんたに守られるなんて思ってないわよ。でも……そうね、少しくらいは期待してあげてもいいわ」


 ツン、と言いながらも、カトレアの頬がわずかに染まっているのを見逃さなかった。馬車が街道を進み始めると、まるで一つの物語が終わり、次の章が幕を開けるような感覚がある。ここからは俺が責任を持って、彼女の居場所を確保していく。それは大変な道のりだけど、同時にどこか楽しみでもあった。


 こうして、俺たちは王都を離れ、新しい未来を求めて出発する。互いの思いを抱えながら、でも同じ馬車に乗り込んだ。その事実だけで、きっとこれからの物語は少しずつ変わっていくはずだ――そんなわずかな希望を胸に、俺は手綱を握る御者に「頼む」と合図を送った。

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