第6話 地方への帰還②
翌日。
夕暮れ時の王都の街は少しだけ涼やかな風が吹いて、昼間の暑さを忘れさせるような空気が漂っていた。人通りはまだ多いものの、夕食の支度を始める店や屋敷が増え、どこかざわめきが落ち着いてきた印象がある。そんな街の様子を横目に、俺は少しだけ緊張した面持ちで足早に目的地へ向かっていた。
――カトレアに会いに行く。
このまま王都にいても状況は悪化するだけ。それならば、いっそ自分の領地へ帰ろうと決意したけれど、俺は最後に彼女へ提案したいことがあった。“もし行き場がないのなら、俺の領地に来てほしい”と。もちろん、そう簡単に首を縦に振ってもらえるとは思っていない。けれど、黙って去るのはどうしても心残りで……。
「緊張するな……」
こんなにも手汗をかくなんて、どれほど自分が意識しているんだろう。王都の名家公爵令嬢を自分の領地に誘うなんて、並の思考なら到底あり得ない行動だ。けれど、カトレアが追い詰められている現状を考えると、他に手はないように思えた。
彼女が一時身を寄せていると噂される館の門の前に立つと、やはり門番の視線が冷たい。前回、顔を覚えられたせいだろうか、一瞬だけ警戒の色を浮かべながら、しかし門を開いて通してくれる。ここ数日での俺の評判は散々だが、どうやらカトレア本人の許可があったらしい。
「……やっぱり居場所をなくしているのかもしれないな」
館の庭を抜け、控えの間に案内される。装飾は最低限だが、元の豪華さが偲ばれる造り。かつては華やかな社交の場だったのだろうに、いまは仮住まいめいた雰囲気が漂っていた。案内の侍女が俺を残して扉を閉めると、薄暗い室内に立つ姿が視界に入る。
「……あなたね、また会いに来るなんて相当な物好きじゃないかしら」
その声は、やはり少し尖っていた。そこにはカトレアがいた。薄紫のドレスに身を包み、まるでこの世の嫌なものすべてを拒むかのような冷たい視線を俺に向けている。それでも彼女の目元には確かな疲労があり、頬が以前より痩せて見える気もする。
「お邪魔します。突然ごめんなさい。けど、どうしてもお話したいことがあって……」
「話したいこと? まさかまた私を庇うだの何だの、面倒な主張じゃないでしょうね。王都じゃもう“あなたに関わると不幸になる”なんて噂まで立ってるわよ」
くすっと嘲笑まじりの口調。しかし、その瞳にはどこか警戒がにじんでいるようでもあった。俺は息を整え、ゆっくりと距離を詰める。そうは言っても、いきなり近づけば怒られかねないので、数歩手前で足を止めた。
「さっそくだけど、俺は決めたんだ。近いうちに王都を出て、領地へ戻ろうって」
「領地へ……。そう、やっぱりあなたも“ここに居場所がない”と悟ったわけね。あれだけ王太子殿下に歯向かったんじゃ、居られなくなるのも当然だと思うけど」
彼女の口元が皮肉げに歪む。確かにその通りだ。ここで下級貴族の俺が踏ん張っても、得られるものはほとんどない。だからこそ、俺は本当に守るべきもの――故郷――に戻る選択をした。
「うん、正直、王太子殿下や取り巻きたちからの圧力に耐えるほどの力は、俺にはない。俺が足掻けば足掻くほど領地の住民にまで影響が出そうだし……」
「……そう。いいんじゃない? あなたも多少は利口になったわけね」
「でも、だからこそ、あなたを連れて行けないかと思って」
一瞬で空気が張り詰めたのがわかる。カトレアの瞳が見開かれ、その表情には思いがけない驚きが混じっている。彼女は一瞬だけ息を呑んでから、低く反射的に言葉を吐いた。
「連れて行く……? 私を……? 馬鹿じゃないの?」
「馬鹿かもしれない。けれど、あなたがこのまま王都に留まったって、いい方向に進むとは思えないだろ? 実際、後ろ盾を失っているって噂も聞いてるし、あなたが追い詰められているのは明らかだ」
「だからって、下級貴族の領地に引きこもるなんて、プライドが許すと思う? 私はレーヴェンシュタイン家の娘よ。こんな形で逃げ出したら、ますます笑いものになるわ」
キッと睨まれて、言葉が詰まる。確かに、彼女にとっては大きな決断だろう。ただ、ここで黙ってしまっては今までと同じだ。もう一度意を決して声を出す。
「そうかもしれない。だけど、何もしないまま王都で潰されるくらいなら、一時的にでも身を避ける場所があったほうがいいと思う。俺の領地は小さいけれど、あなたがいればきっと迎え入れてくれる。どんな事情があるかは俺だけじゃなく領民にも説明するし……」
「あなた、ずいぶん勝手なことを言うのね。レーヴェンシュタイン家には家の名誉があるのよ。私が軽々しく他所の領地に逃げ込むなんて、どう思うかしら?」
「わかってる。でも、ここであなたが潰されるほうがよほど名誉を汚すんじゃないか? 王太子殿下の圧力は強い。取り巻きの動きも陰湿だ。今のままであなたが安泰な未来を得られるとは思えない」
カトレアは唇を噛みしめ、視線を床へ落とした。そんな彼女の態度に、俺は思わず胸が苦しくなる。高貴なプライドを持つ彼女が、こんなにも追い込まれている証拠かもしれない。
「私は……決して逃げたいわけじゃないの。自分の生き方やプライドを曲げてまで何かを得るのは、嫌なのよ。わかる?」
「うん、わかるつもりだ。だから、これは強制じゃない。ただ、もし行き場に困っているなら、俺の領地が受け皿になれるかもしれない。それだけの話なんだ」
「簡単に言うけれど……あなたの領主としての責任は? 公爵令嬢を招き入れるなんて、周囲の反発もあるんじゃないの?」
「あるだろうね。でも、俺が責任を取るよ。下級貴族だからといって、守りたい人を守れないわけじゃない。領民にも誠意を持って説明すれば、きっと理解してくれる」
言い終えると、少し息が切れそうなほど、熱く語ってしまった。カトレアは深いため息をついて、わざとらしく肩をすくめてみせる。けれど、その瞳は揺れているのがわかった。怒りとも不安ともつかない複雑な感情が見え隠れしている。
「本当に……甘いわね。あなたはいつだって、自分の正しさに固執して、私を“助けたい”とか言ってくる。その結果、どれだけ危険にさらされても構わないの?」
「構わない……とまでは言わないけど、覚悟はしてる。実際、もう散々な仕打ちを受けてるし、これ以上悪くなるならそれでもいい。俺はやるだけのことをやりたいんだ」
「やるだけのこと、ね……」
小さく繰り返した彼女の声は、いつになく弱々しい。確かに、自分をこんなにも気にかける存在がいるのは彼女にとって予想外なのだろう。プライドで固めた鎧が少しだけ軋んだようにも見える。
しかし、カトレアは次の瞬間、勢いよく顔を上げ、その瞳に再び強い光を宿した。
「でも……私は逃げたくない。レーヴェンシュタインの名を背負っているし、ここで何もせずに逃げるのは認められないのよ。簡単に“はい、わかりました”なんて言えるわけないでしょ」
強い拒絶の言葉。俺は一瞬言葉を失う。けれど、その裏には葛藤があるのは伝わってくる。実際、彼女自身もどうすればいいのか迷っているはずだから。
「そりゃ、簡単じゃないことはわかってる。だけど、俺が提示できるのはこうするしかなくて……。もしそれを“逃げ”と感じるなら申し訳ない。でも、本当にこのままだとあなたは……」
「……黙って。わかってるわよ、そんなこと。私がどれほど危うい立場かなんて、本人が一番感じてるんだから」
ビシッと突き放すように言われ、俺は口をつぐむ。室内に張りつめる気まずい空気に、思わず喉が渇く感覚があった。カトレアはしばらく無言で俺を睨んでいたが、やがてフッと目を伏せ、呟くように言葉を紡いだ。
「……悪いけれど、私はレーヴェンシュタイン家の人間よ。そう簡単に他の領地へ行くわけにはいかない。あまり大きな声では言えないけど、家の事情もいろいろあるし……プライドの問題だけじゃないの」
「そっか……」
「あなたの厚意はありがたいけど、私から言わせれば“余計なお世話”かもしれない。少なくとも今は、あなたの領地へ行く気はないわ」
グサリと刺さる言葉。そりゃまあ、そんなに甘くはないと思っていたが、実際に断られるとやはりこたえる。でも、カトレアの気持ちも考えれば、すぐに応じるわけがないのも当然だ。
「わかったよ。強要する気はない。……ただ、どうしても行き詰まったなら、遠慮なく言ってくれ。俺の領地は小さいけど、あなたを保護するくらいの余地はある」
「ふん……誰がそんなところに行くかしら。でも、覚えておくわ。一応あなたの言葉には誠実さを感じるし」
口調は依然として尖っているが、ほんのわずかに温度が和らいだ気がする。カトレアは視線を横にそらし、そのままスタスタと部屋の奥へ歩み始めた。
「話は終わり? もう行ってちょうだい。これ以上あなたと会ってると、また変な噂を立てられそうだし。私は私で、やらなきゃいけないことがあるの」
「わかった。……ごめん、急に押しかけて」
「謝る必要なんてないわ。むしろ、私をここまで気遣ってくれる人なんて、あなたくらいかもしれないし」
最後の一言は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。俺が何か言い返そうとした瞬間、カトレアはクルリと背を向け、ためらいなく部屋の奥の扉を開けて姿を消す。やがて閉められた扉だけが残り、俺は何も言えないまま立ち尽くした。
「……断られた、か。まあ、そうだよな」
落胆はあるが、まったく脈がないわけでもなかったように感じる。不器用な彼女の態度からは、「追い詰められている」ことや「もう誰も頼れない」現状への苦悩が伝わってきた。今は彼女のプライドが前面に出ているが、もし本当に行き場を失ったとき、俺の領地を思い出してくれるかもしれない。
「とりあえず、言うだけは言った。後は……俺が王都を出る前に、何かきっかけがあればいいんだけど」
心の奥にはまだしこりが残る。けれど、今はこれ以上無理を通すわけにいかない。カトレアを尊重しつつ、俺なりの道を進むしかないんだろう。たとえ今は拒絶されても、「いつでも頼ってほしい」と伝えることができたのだから、少しは前進したはずだ。
「それにしても、あの強がりぶりは相変わらずだな……」
苦笑いを噛み殺しながら、館を後にする。外へ出れば、すっかり薄暗くなった王都の街が広がっていた。遠くで鳴く鳥の声を聞きながら、俺は小さく深呼吸する。まだ胸がドキドキしているのは、彼女と直に言い争ったからだろう。
「よし……後は俺が領地に戻る準備を進めるだけだ。彼女が“やっぱり逃げたい”と思ったときに、受け止められるようにしておこう」
そう決心すると、不思議と心は少し軽くなる。断られはしたが、今はそれで十分だった。あとは時が解決してくれるか、もしくは新たな困難が襲うかはわからない。それでも一歩を踏み出したことに変わりはない。
夜風が肌を撫でて通り過ぎる。暗い路地を歩きながら、俺は自分の運命がどこへ向かうのかをぼんやり考える。今はわからなくとも、領地に帰ればもう少し冷静に先を見据えられるだろう。カトレアのために何ができるかも、故郷で腰を据えて考えれば、道が開けるかもしれない。
「焦らず、でも諦めず。俺はそうするしかない……」
独り言の響く路地の先には、暗い夜空にぽっかり浮かんだ月があった。まるで、俺の決意を見守るように輝いている。その月を見上げながら、俺は館を背にゆっくりと歩き出す。ここが“断られた”終着点ではなく、“次”への始まりかもしれない。そんな微かな希望を抱きながら、王都の夜を彷徨う足音を刻んだ。




