第4話 月夜の庭園で②
月夜に照らされた庭園を歩きながら、俺はふと噴水のある中庭へ足を向けた。先ほどまで降りかかっていた重たい空気が、少しでも和らぐことを願っての散策だったが……そこで目に入ったのは、黒いドレスが月明かりを返すように浮かび上がる、ひとりの女性の後ろ姿。
あれは――カトレア・レーヴェンシュタイン。
夜会の場で、理不尽な婚約破棄を宣告された令嬢。噴水の近くでじっと佇む姿は、あの“高慢で気が強い悪名高き公爵令嬢”という噂からは想像もつかないほど、どこか寂しげだ。
(大丈夫なんだろうか……いや、そもそも話しかけていいのか? 相手は公爵令嬢だぞ……)
心臓がどくどくと鳴る。下手に近づけば、また殿下に睨まれるかもしれない。それに、彼女の機嫌を損ねるリスクもある。ただ、あの背中を見ていたら、黙って通り過ぎるなんてできそうになかった。
月光が噴水の水面に反射して、あたりを揺らめくように照らしている。彼女の黒髪も銀色に染まって見えて、その横顔がかすかに俯いているのがわかった。昨日の喧騒が嘘みたいに静かな空間――だからこそ、彼女の胸の内にある寂しさが余計に伝わってくる気がした。
「……あの、カトレア様……?」
意を決して声をかける。小さく名を呼んだつもりだったが、夜の静寂の中では妙に響いた。カトレアはゆるりと振り向き、こちらに視線を送る。
「……あなたは、男爵家の……アレン、でしたか?」
「ええ、そうです。あの、夜会のときは……いろいろ、すみませんでした。カトレア様には余計な迷惑をかけたかもしれないし……でも、あの場ではどうしても黙っていられなくて」
言い訳がましい口調になってしまう。実際、俺が庇った形になったことで彼女が余計にやりづらくなっていたらどうしよう、という不安があったからだ。
カトレアは俺の言い訳を聞きながら、ちらりと噴水のほうに視線を戻す。湧き上がる水の小さな音が、夜の風と相まって微かな旋律を刻む。それに混じって、彼女の吐息がほんの少し聞こえたような気がした。
「……まあ、あのときは誰も私を助けようとしなかったし、あなたが声を上げてくれたのは、ある意味驚きでした。でも、結局あれであなたが敵を増やす羽目になったわね」
「そうですね。王太子殿下はじめ、貴族社会もあんまりいい顔してくれませんでした……まあ、もともと下級貴族の身ですし、仕方ないです」
無理に笑ってみせるが、正直なところ余裕はない。これから先、どんな報復や嫌がらせが待っているかわからないのだから。けれど、自分の信念を貫いたことに後悔はしていない。
「大丈夫ですか……?」
そんな言葉が思わず口をついて出る。するとカトレアはほんの少し眉をひそめ、俺を見上げた。その視線には険しさが混じっているが、それだけじゃない。
「大丈夫、なんて言えるわけがないでしょう? 信頼していたわけじゃないけれど、あそこまで公衆の面前で私を落としめられて……誰を信用すればいいのか、わからなくなっても無理はないと思わない?」
低いトーンで吐き捨てるように言う彼女。それでも、その瞳にはかすかな動揺が揺れていた。まるで自分の気持ちを打ち明けることに戸惑っているかのよう。
俺は一歩近づきそうになったが、無遠慮に踏み込むのはよくないと感じ、足を止める。月明かりの下で見るカトレアの横顔は、凛とした美しさが際立つ一方で、か細い影が差しているのがわかる。
「誰も信用できない……ですか。でも、俺はあなたを傷つけるつもりはない。実際あの夜会で、あなたに何か恩を売りたかったわけでもありません」
「そうね。あなたはただ、自分の正しさを信じていたように見えた。それが結果的に私を庇う形になっただけでしょう?」
「ええ、そうかもしれません。だけど……それでも、もしあなたが苦しんでいるなら、放っておけなかった。だから、正直、あなたを“守りたい”と思ったのは事実です」
思わず真っ直ぐな言葉が出てしまう。彼女の気持ちを無視して突っ走るのは自己満足かもしれない。けれど、嘘をついても仕方ない。
するとカトレアは苦笑まじりに、小さく首を横に振った。
「守りたい、なんて大層なこと。あなたには何もできないんじゃない? 王家の力は絶対だし、私も自分の身を守るすべを探さなきゃいけない。あなたがどんなに綺麗事を並べても、それが現実よ」
「……そうですね。それでも、俺は見て見ぬ振りをするより、行動を起こしたい。少なくとも、あなたを一人にはしたくないって思ったんです」
その言葉に、カトレアがほんの少しだけ目を丸くする。彼女の唇はきゅっと結ばれ、何かを言おうとして止まったようにも見えた。
「……どうして、そこまで……?」
「どうして……うまく説明できません。ただ、あなたが辛そうだったから。それだけです。俺も難しいことはわかりません。王家や貴族社会の権力争いとか、政治的な駆け引きとか……でも、苦しんでる人を見過ごすのは嫌なんです」
彼女は微かに息を吞んだ。噴水の流れる音が、さらに静かに聞こえる気がする。夜の風が少し冷たい。俺は言葉を探しながら続けた。
「もし信頼できる人がいないというなら……ほんの少しだけでも、俺を信用してみませんか? 俺があなたを利用しようと考えていないことは、わかってもらえるんじゃないかと……」
「……あなたは、甘いわね」
小さく呟いた彼女の声は、どこか呆れたようでもあり、微かな優しさを感じさせるものだった。まるで、もう少しだけなら信じてもいいかもしれない――という含みがあるようにも思えてしまう。
「ごめんなさい、変なこと言って。……困りますよね」
「困る、というより……正直、戸惑ってる。あなたみたいな人がいるなんて、考えてなかったから」
視線を噴水の水面へ落としながら、カトレアは少しだけ表情をゆるめた。まるで氷の膜が一瞬だけ溶けて、そこから人間味が覗いているように見える。
だけど、それはほんの束の間。すぐに彼女は足を翻し、距離を取るように二、三歩後ずさった。
「……でも、私が簡単に人を信用するとでも思った? ねえ、あなた。私が本当に“悪い”令嬢かどうかなんて、まだわからないわよ。どんな噂が流れているか、あなたも多少は聞いてるんでしょう?」
「噂、ですか……たしかに、高慢だとか、性格が悪いとか。いろいろ耳にしました。でも……俺はそれだけじゃ何も判断できません。あなたと、こうして話してみて……俺はカトレア様が“悪人”だとは思えない」
素直な言葉に、彼女はわずかに目を伏せる。そして舌打ちにも似た小さな音を立てた。
「……やっぱり甘いわね。まあ、あなたがどれほど真面目だろうと、この国全体があなたを歓迎するわけじゃない。むしろ私を庇った以上、貴族社会からはさらに疎まれるでしょうね」
「それでも構いませんよ。俺が選んだ道ですから」
「そう……なら、好きにするといいわ。私を庇おうが、守ろうが……私は誰も信用しないし、頼りにもするつもりはないけれど」
一瞬だけ寂しそうな光が、彼女の瞳に宿った気がした。そして、そのままさっと身体を反転させ、噴水から遠ざかるように歩き始める。
月明かりに照らされたその背中は、どこか孤独をまとっている。心の一部をほんの少しだけ開いてくれたようにも思えたが、まだまだ完全には踏み込ませてくれないようだ。
「……俺は、あなたを傷つけるつもりはありません。覚えておいてください」
最後にそう投げかけると、カトレアはちらりとこちらを振り返る。その瞳には“ツン”としたプライドが宿っていて、けれど同時に微かな苦しみを抱えているのが伝わってくる。
「ふん……あなたがどこまで本気か、気が向いたら確かめてあげるわ」
それだけ言い残して、彼女は夜闇の中へと溶け込むように去っていった。噴水の音だけが後に残り、俺は月の下で深く息をつく。心は妙に熱くて、だけど寂しさも混ざった不思議な余韻が残る。
――彼女は“誰も信用できない”と言った。だが、俺がもしその言葉を覆せる存在になれたなら。きっとこの運命が、少しだけ違う形で動き出すかもしれない。
そう願いながら、俺は噴水の水面を見つめ、夜の静けさに溶け込んだ。




