第4話 月夜の庭園で①
夜会の熱気が嘘みたいに冷めきった王城の廊下を抜けると、そこには壮麗な庭園が広がっていた。夜風に揺れる花々、月明かりを浴びて白銀に照らされる小道――どれも絵に描いたように美しい。それなのに、心が全く弾まない。むしろこんなに素晴らしい景色を前にして、ひどく寂しさを感じている自分がいる。
「はあ……」
思わず深いため息をついた。ふと目に入る月の光が、まるで俺を慰めようとしているかのように感じるけれど、胸の奥は焼けるように苦しかった。昼間の喧騒が嘘のように、今は庭園にほとんど人影がない。かすかに遠くで誰かの足音が聞こえる程度だ。
「正義とは何か……か」
静寂の中、ポツリとつぶやいてみる。思えば今日一日で、やたらと“正義”や“正しさ”を口にした気がする。王太子リシャール殿下と対立し、公爵令嬢カトレアを庇う形になったのは確かに俺の意志だ。けれど、その結果として俺は何を得たのだろう。あるいは何を失ったのか。
暗い夜空を見上げながら、記憶を辿る。さっきまでの夜会は、壮絶な結末に終わった。リシャール殿下をはじめとした高位貴族たちからは明確に敵扱いされ、カトレア当人にしても、本当に助けになれたのかどうか疑問だ。
「……間違ってなかったとは思いたい。あれが正しいと思ったから行動した、でも……」
言いかけた言葉が喉で止まる。心の中は、否定的な思考に飲まれそうだった。俺はこの先、王都で生きていくことができるんだろうか。地方の男爵領を守るどころか、逆に災いを招く可能性だってある。あの王太子と真正面から対立するなんて、普通に考えれば破滅の道だ。
「はあ、どうするかな……」
庭園の小道を歩く足取りは自然と重くなる。月明かりだけが淡く地面を照らし、花壇の鮮やかな色合いを白く浮かび上がらせていた。ほんの少し風が吹いて、草木がさやさやと揺れる。その音に耳を澄ませながら、俺は静かに周囲を見回す。昼間なら華やかに咲き誇っていただろう花々も、夜の光の下ではどこか儚さを感じさせる。
「王都の社交界なんて、所詮縁のない世界だと思っていたけど……まさか、こんな形で深く関わってしまうとはな」
自嘲気味に呟いてみても、気分は晴れない。誰もいない庭園だからこそ、心の声がやたらと大きく聞こえる。人のいない静寂は嫌いじゃないはずなのに、今はどうしようもなく孤独だった。
花壇の隅にあるベンチを見つけ、腰を下ろす。背もたれに寄りかかって、もう一度空を見上げる。大きくて丸い月が、まるで俺を監視しているようにも思えた。夜会の派手な明かりに比べれば、ずっと穏やかで優しい光だ。けれど、その優しさが胸にしみて、逆に苦しくなる。
「もし、誰もカトレア様を庇わなかったら……どうなってたんだろう。殿下があれほど強引に婚約破棄を宣言した時点で、もうどうにもならなかったのか」
自分に問いかけても答えは出ない。現実は、誰一人としてカトレアに手を差し伸べなかった。俺がそれを見かねて声を上げただけだ。それだって、彼女の痛みを完全に救えたわけでもない。強引に誰かを裁いたり、場をひっくり返す力など、俺にはないからだ。
「それでも……俺は“このままじゃだめだ”と思ったんだ。放っておけなかった……」
胸の内の葛藤を整理するように、何度も呟く。徐々に落ち着いてくる反面、冷静になればなるほど、これからの問題が山積みなのも見えてくる。王太子の逆鱗に触れた以上、貴族社会全体を敵に回す覚悟がいるし、自分の故郷の男爵領をどう守るかも考えなくちゃならない。
ふと、木の枝に止まる小鳥の鳴き声が聞こえる。こんな夜更けに鳥が? と驚いて見上げると、月の光に照らされた小さな姿が一瞬羽ばたいた。もしかすると、どこかの国から渡ってきた鳥かもしれない。俺を見下ろすような位置から、ひょいと首を傾げているように見えた。
「君は、自由に飛べていいな……」
思わず変な独り言を漏らすと、その鳥はパタリと飛び去っていく。少し強い風が吹いて、庭園の草木が揺れた。王城の庭園だけあって、手入れが行き届いているのだろう。夜の闇の中でも乱雑な印象はなく、むしろ整然と美しく形作られている。
「……俺の人生も、こんなふうに整っていれば良かったのに」
そんな弱音を吐いてしまう。けれど、もう何を言っても遅い。偽らざる自分の信念のために、一歩を踏み出してしまった以上、もはや後戻りは不可能だ。王太子リシャール殿下に狙われる危険を抱えつつ、男爵としての責務も全うしなくてはならない。さあ、どうするか。
「はあ、疲れた……」
ゴロンとベンチに体を預ける。月明かりに照らされる庭園を眺めながら、すうっと深呼吸をしてみる。静寂の中で呼吸を整えると、少しだけ頭が冴えてきた。もうやるしかない。自分が正しいと思ったんだから。その裏にあるリスクも飲み込む覚悟があるなら、前に進むしか道はない。
「……本当に、これでいいんだよな。俺は間違ってないはずだ……けど、どうなるんだろう、今後」
疑問を抱えつつ、夜の闇へ問いかける。でも、庭園は何も答えてくれない。月夜の静寂が余計に孤独感を煽るだけだ。それでも、こうして一人きりで息をつける場所があるのは救いかもしれない。派手な音楽や貴族たちの視線から逃れ、素の自分に戻る時間が、今は何よりも欲しかった。
遠くのほうでガサリと人影の気配がしたが、すぐに消えた。誰かが庭園を散策しているのかもしれないが、今は声をかけられなくて助かる。あれ以上社交界の重圧を感じるのは、正直しんどい。
「……絶対に挫けたりしない。俺は俺の道を行く」
決意を固めるように呟く。薄っすらと汗をかいた手のひらを握りしめ、胸を張る。疲れているのは確かだが、立ち止まるわけにはいかない。男爵家の跡継ぎとして、そして何より“一人の人間”として、貫きたいものがあるから。
「月、綺麗だな……」
ふと、思わず口に出た言葉が夜風にさらわれていく。もしかしたら、もう一度カトレアと話せる日が来るかもしれない。いや、王太子に目を付けられた今、そんな機会はないかもしれないけれど……それでも、願わずにはいられない。
「また何かのきっかけがあれば……俺は逃げずに向き合いたい」
そうつぶやき、ゆっくりと立ち上がる。今夜はもうここで眠ってしまいたいくらい疲れているが、さすがにそれはまずい。庭園の美しさに名残惜しさはあるけれど、今は体を休めることが最優先だ。
「はあ、明日からどんな風向きになるのかな。……ま、嘆いてても仕方ないか」
最後にもう一度だけ月を仰ぎ見る。冷たい光が俺の心を少しだけ落ち着かせてくれる気がした。やるしかない――王都での立場が危うくなろうと、自分を曲げないと決めた以上、悔いのない選択を重ねるだけだ。
そんな決意を胸に抱きつつ、俺は庭園を後にする。深夜の王城の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていて、その静寂が明日への一歩を踏み出す勇気をくれるようでもあった。




