『アポリア・マギア・コード』 第七章:鍵と反転
「名前とは、存在を拘束する呪いだ。
だから、我々は“鍵”を失うことで自由を得る。」
そう語ったのは、クロウだった。
舞台はイスタンブール。
旧オスマン帝国の迷宮のような地下宮殿――「ユスティニアヌスの水の間」で、クロウはひとり、《構造コード断片》を解析していた。
背後にはラケルの気配がある。
「また勝手に動いて……」
「動いてなどいない。“導かれた”だけだ。」
クロウは言う。アストラルストーンをかざし、かすかに青白い光を放たせた。
石壁には文字ではなく“空白”が並んでいた。
記号すらない、意味の死角。
「……これは、“名を持たぬ者たちの書庫”。神に定義されなかった歴史、言葉、存在の記録地だ」
「記録なのに、何も書かれていないの?」
「書かれていないことが、“最大の記録”だ。
名を持たなかった者たちの声は、形式に囚われない。」
そのとき、石壁の一部が崩れ、中から一枚の黒曜石の鏡が現れた。
鏡の中には、ノアの姿が映っていた。
——だが、それはノアではなかった。
「……これ、“彼”じゃないわ」
ラケルの声が震える。
「正確には、“ノアだった存在の、反転構造”だ」
クロウは答えた。
「“鍵”は、存在の裏面。彼の罪、沈黙、記憶、すべてを構造的に反転したもの。それが、“ノアΩ”――もう一人の彼だ」
鏡の中の“ノアΩ”は、ゆっくりと目を開いた。
その瞳は、無感情の光をたたえていた。
「αは観測し、Ωは沈黙する」
ノアΩが言う。
「構造は循環し、すべては“鍵”に還元される」
「つまり……彼自身が、“扉”なの?」
ラケルが問うと、クロウは静かに頷いた。
「そうだ。ノアが“かつて罪を背負ったこと”を真に受け入れたとき、彼の内部にあった“自己定義”は構造的に解体される」
「Protocol Omegaの真の発動条件は、“自己反転による認識”――。
ノアが、自らを“反転された存在”として受容した瞬間、扉は開かれる」
ラケルが叫ぶ。
「じゃあノアを止めなきゃ! 彼を“鏡”の前から引き離す!」
「……それができるなら、な」
クロウの言葉には、どこか諦めと祈りが混ざっていた。
かつて彼が定義した“名もなき死者たち”へ贖うように――
ノアを裏切ることすら、彼にとってはひとつの“祈り”だった。
その瞬間、遠く――ヴァチカンの聖務局地下で、ノアは鏡を前に立ち尽くしていた。
鏡の中の“もう一人の自分”と、静かに向き合いながら。
「俺は……何者だった?」
鏡は答えない。
だが、その沈黙こそが、最初の返答だった。
――《鍵》は、開かれようとしていた。
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