『アポリア・マギア・コード』第三章:Ω構造体
――呼ばれたのは、心だったのか、それとも魂だったのか。
ノア・ウィンザーは、かつての自分なら絶対に立ち入るはずのない領域に足を踏み入れていた。
旧バチカンの地下深く、認証された者しか辿り着けない“記録上存在しない施設”――そこが、すべての始まりだった。
数日前、彼のもとに一通の封書が届いた。差出人の名はなかったが、封蝋には、アポリア・インスティテュート(A.I.)の古い印章が押されていた。
中には、たった三つのものが入っていた。
ひとつ、施設の座標を記した紙。
ひとつ、識別タグ。
そして、最後に、短い言葉。
《Ω MIRROR》へようこそ。
貴君のコードは E-9。アクセスレベルは「構造体適合者」。
指定時刻、指定座標にて入室を許可する。
以降の記憶の一部は“揮発”対象となる。
─ Project Codex Ex Machina
理解不能な文面。だがノアの中で、何かが確かに“反応”していた。
それは理屈でも職務でもない。魂の奥底で、小さな共鳴音が鳴っていたのだ。
その日を境に、彼の周囲の電子機器がノイズを帯び始めた。
あるときはスマートフォンの画面が、あるときは壁時計のLEDが。
それらは共通して、ひとつの奇妙な形を示していた。
――Ω。
ギリシャ文字のそれは、単なるシンボルではなかった。まるでノアの中にある何かと“共鳴”しているかのように、静かに、だが確実に、彼を“呼んで”いた。
そしてその夜。
彼の直属機関であるCIA特殊部門から密かに「出向」を命じられた。
指令は曖昧でありながらも、明確だった。
「お前は選ばれた。なぜ選ばれたかは、行けば分かる。」
だが、ノアにはうすうす感じていたことがある。
自分の中にある“何か”――それは、魂の記憶とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。
彼は知っていた。かつて、自分が死にかけたことを。
子供の頃、悪魔に取り憑かれ、エクソシストに命を救われた記憶。
そして――その時、自分の魂は“別の世界”にいた。
誰にも話したことのない、色彩と風の違うあの異界。
数時間の現実時間で、数年を過ごした記憶は、いまや断片しか残っていない。
けれど確かに、その時から、ノアの魂は“こちら側”とは異なるリズムで、鼓動していた。
それゆえに、彼はProject Codex Ex Machinaの核に触れる適合者となった。
選ばれたのではない。彼自身が“招かれた”のだ。
ただひとつの魂の形として――。
アウディ A6 セダンの黒い車体が、ローマ郊外の石畳を静かに滑っていく。
早朝の薄明かりが、濡れた路面に淡く反射し、歴史の匂いを残す街並みを横目に車は走る。
エンジンは電気モードに切り替わり、タイヤの擦れる音さえ吸い込むような静寂の中、車はカステル・ガンドルフォの丘を下った。
まもなく高速入口の標識が見え、ノアは無言のままウインカーを点ける。
「……それで、やっぱりあなたも来るんですね」
助手席の女に問いかける声は、空気のように乾いていた。
「当たり前でしょ。あそこへ入るには、私の認証が必要なの」
ヴェロニカ・シャリフは、目を閉じたまま答える。
「でも、それって――」
「“Ω構造体”は、あんたが思ってるより深い場所にある。
魂の残響がまだ響いてる場所。記録じゃなく、記憶が生きてるのよ」
ノアは少しだけアクセルを踏み込み、スムーズに加速する。
セダンの足回りは高精度に制御され、振動ひとつ伝えない。
「なぜ、僕なんですか?」
「……私が見た“映像”に、あんたが映ってた。
それも、まだ死んでないのに、記録の中にいた」
「死んでないのに、死者として登録された、か。……まるで冗談だな」
「冗談だったら、あんたは今ここにいないわよ。
“あの時”、デルタが何を守って死んだのか……あなたはまだ、知らない」
ハンドルを少し切り、高速道路の本線へ合流する。
窓の外に広がる空は、まだ夜と朝のあいだにいた。
静かに、確かに、何かが目覚め始めていた。
ヴェロニカは助手席から、窓の外の流れる景色を眺めながら言った。
——「相手がカリスマだと思ったら、人間は考えることをやめるらしいわよ。」
「わたしたちがこれまで信じてきた“エクソシスト”たちって、よく考えれば滑稽よ。カリスマのように振る舞って、逆に人々の理性を麻痺させてしまう。」
「呪文を唱えるよりも、信じ込ませる方が効くってことだな。」 ノアが運転席で苦笑する。
「ええ。しかもそれが“善”だとみなされると、周囲はそれに疑問を持たなくなる。まるで理性を叩きのめして服従するみたいに。」
ノアは脇のコンソールから、古い記事を取り出した。 それは、20年前の心理学論文の一節だった。
『人はひとたび“カリスマ”を見出すと、なぜか比較や検証を手放してしまう傾向があるんです。まるで、自分の理性を自ら封じ込めてしまうように……」
「理性的に判断する力を放棄して、聖人のように見える者の周囲に集まり、軽々しくあらゆることを信じ込んでは、それをまるで絶対的な真実のように語る――そんな“軽信者”は、どんな時代にも必ず現れるものです』
「……つまり、エクソシストをカリスマとして見上げた時点で、その者はもはや“自我”ではなくなる。」
「構造の一部になるのよ。」
ヴェロニカは頷いた。 「わたしたちは今、正しさそのものを疑うステージに立っている。“Ω構造体”に触れれば、人間の信仰や理性がいかに脆いか、わかってしまうはず。」
「そのとき、“優しさ”や“英雄性”は意味を失う。」 ノアは静かに言った。 「構造だけが、真理を告げるんだ。」
「構造といえば……なぜ、こんな時代遅れのPHEVなんか使うのよ?」
ヴェロニカが助手席からぼやいた。
ノアは静かに答えた。
「構造体が通信を奪うなら、エンジンは最後の保険だ。完全EVは“止められる”からな」
アウディの古い車体が、石畳の上を低く唸らせながら進んでいく。
静寂と鼓動。
それは彼ら自身の存在とよく似ていた。
彼らの車は、遠くに見える廃教会の影を越えていった。
──「目撃者の資格は、まだあるつもり?」
ローマ市街地から南東、かつて使徒が殉教したと伝えられる聖地に、その病院はあった。
公には退役神父の養護施設。だが実際は、聖務省の末端部局が管理する、元・高位エクソシストたちの「隔離収容施設」だった。
ノアは、壁面に埋め込まれた認証パネルの前に立ち、身分証をかざした。
虹彩認証が続き、ほんのわずかに耳鳴りが走る。
「認証完了。入室許可。」
無機質な音声とともに、セキュリティゲートが左右に開いた。
内部は二手に分かれていた。右は女性、左は男性用の更衣ブース。
ノアは左の通路を進み、無人のロッカー室で白衣に着替える。
着替えを終えると、最後のゲートには一人の武装警備員が待っていた。
「確認する。ノア・アルディス、認可コードE-9、通行レベル3」
警備員が頷き、手のひらで静かにドアを押した。
空気が変わった。
そこは、記録上存在しない中枢部だった。
重たい鉄の扉が閉じられるたび、ノアの耳の奥で小さな記憶が軋む。
あの日、デルタが死んだあの地下空間にも、こんな重さの空気が漂っていた。
施設の奥に、ヴェロニカがいた。
白衣姿のまま、一本のモニターケーブルを指で撫でている。
彼女はその画面を、ノアに押しつけた。
映っていたのは、イプシロンだった。
悲鳴をあげるでもなく、悪魔に祈るでもなく。
ただ黙って、鏡を見つめていた。
その鏡の中に、《Ω》の刻印が揺れていた。
ノアは無意識に後退る。が、背中に鉄扉が冷たく触れた。
「この施設に来た“元”は、みな死んだことにされてる。魂が戻ってこなかった者たちは、《構造体》とされたのよ。」
彼女の声は淡々としていた。けれど、目だけが、あの作戦の続きを語っていた。
「つまり……これは、“人体Ω転移計画”?」
「コードネーム:Project Codex Ex Machina(機械外典計画)。
MaQを基盤とした魂の転移……その試作初期群。」
「それを、おまえたちモサドが?」
「私たちじゃない、私の上司だった人間がやっていた。
イプシロンは、その被験体第一号だった。
そしてデルタは、それを追っていたのよ。……コードネームΩの胎動を。」
ノアは気づいた。
これは“国家機密”ではない。
“国家を超えた意思”が、MaQの深層で動いている。
「ノア……あなたは、まだ“目撃者”の資格があるの?
それとも、また逃げるつもり?」
彼女の問いに、ノアは黙ったままUSBメモリを取り出す。
Ωの記号。イプシロンの姿。焼かれた魂。
それらは、もはや偶然ではない。
ノアの指が震えながら、メモリを読み込ませた。
その画面に、かすかに浮かび上がった言葉。
ALPHA SEED CODE → OMEGA MIRROR
「……鏡か……。俺たちは、ずっと誰かの“反射”にすぎなかったのか?」
ノアは、初めて十字を切らなかった。
そのとき彼はもう、祈りではなく“構造”を信じていたからだ。
※本作およびその世界観、登場用語(例:メモリウム™、魂経済、共感通貨など)は、シニフィアンアポリア委員会により創出・管理されたオリジナル作品です。無断転用や類似作品の公開はご遠慮ください。