『アポリア・マギア・コード』第二章:名なき巡礼者(エルサレム、夜明け前)
石畳の街に、乾いた風が吹き抜ける。
エルサレム。信仰の原点、そして幾千年にわたる流血の巡礼地。
その夜明け前、神殿の丘の東側――かつて「オリーブ山」と呼ばれた墓地で、一人の男が立ち尽くしていた。
長身。黒い帽子。無精髭とサングラス。
肩にかけた革製のカバン。その中には、燃えるような赤色をした奇妙な石――《アストラルストーン》が収められていた。
「……また一つ、魂が燃えたか」
男――名をクロウという。
それが本名かどうかを知る者は、いない。
ただ世界中の諜報機関が彼の存在を"伝説"として恐れ、その名を聞くだけで作戦を中止するとも言われていた。
彼は死者の墓標に手をかざし、ひとつ祈りを捧げた。
「名も持たぬ者に、名を。魂を失った者に、記憶を。分断された者に、再統合を……」
クロウの呟きと同時に、アストラルストーンが一瞬、夜明けの光に共鳴して微かに震えた。
そこへ足音。ひとりの少女が現れた。
「……ようやく、見つけた」
少女の名はラケル。イスラエルの地下神学校に所属する異端審問士。
彼女は十字を切らず、代わりに片手を掲げ、古代アラム語の呪句を唱えた。
「それを返して、クロウ。あなたのような存在が持っていいものじゃない」
「“存在”……か。君はまだ世界をそんなに単純に区切れるのか」
クロウは笑い、ゆっくりと振り返った。その瞳は、サングラスの奥で灰色に濁っていた。
「君が追っている“真相”は、すでに形式を捨てている。正義も、神の意志も、すでにオメガ構造の中で定義され直されている」
「だから、その構造図を回収しに来た。あなたは過去に属している。私たちは未来をつくるの」
そのとき、上空に黒い鳥が鳴いた。
カァァァ。
神殿の影が延びるなか、クロウは少女に一歩だけ近づいた。
「では、未来とは何だ? “名前”のない者たちが、どこに向かうべきかを決めるものか?」
少女は躊躇う。
なぜなら、目の前の男から感じたのは、確かに“人間”ではない何か――
むしろ、システムそのものが人間の形をとって現れたような、巨大な“情報存在”だった。
「私があなたを止める」
「いいだろう」
その瞬間、クロウの背後から風が裂け、世界が揺れた。
アストラルストーンが爆ぜ、夜明けの空に無数の記憶の光が舞った。
ラケルは息を呑む。
それは、死者の魂の記憶だった。
“神の国の設計図”とも言える構造が、石から解き放たれていく。
「……この世界は、終わらせねばならない」
クロウは言った。
「Protocol Omegaは、もう始まっている」
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