『アポリア・マギア・コード』 第一章:鏡の中の亡霊(バチカン、深冬)
真夜中のバチカンは、永遠の静寂に包まれていた。
ノア・ウィンザーは、ヴェロニカと並んで石畳を歩いていた。街灯の光が白い吐息に溶け、黒い法衣の影が壁に伸びてゆく。
彼らの前にあるのは、閉ざされた神学研究棟――かつてエクソシスト養成所だった建物だ。
「ねえ、ノア」
ヴェロニカが足を止め、彼の胸元を指差した。
「そのバッジ、堂々と見せていいものなの?」
ノアは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに肩をすくめて言った。
「"Stands for Concealment Is Absent."」
ヴェロニカは呆れたようにため息をついた。「皮肉が板についてきたわね。……まだ、自分を許せてないんだ」
ノアは何も言わず、扉に手をかけた。鍵は開いていた。
中は静まり返っていた。崩れた木の机、剥がれた十字架、そして空っぽの祭壇。
だが、血の匂いはまだ消えていなかった。
「ここで死んだのは、第五級のエクソシスト。コードネーム“イプシロン”」
ヴェロニカが記録を読み上げる。「発見時、頭蓋骨が陥没していて、眼球は……内部から破裂」
ノアは言葉を失い、足元の破片を見つめ呟いた。
「……イプシロンは6年前に“失踪”とされていた。
なのに、なぜ今ごろ――バチカンで、遺体が見つかる……?」
その瞬間、ノアの脳裏に、神学校の記憶がよみがえった。
ノアは、神学校で「神の数学者」と呼ばれていた。
幼い頃から空間構造と抽象概念に強く、数式や論理に関しては大人顔負けだった。
だが、彼は極端なコミュニケーション不全──いわゆる自閉スペクトラム症の特性を強く持っていた。
発達障害の傾向や行動が、文化的・宗教的信仰と交差することで、過去には“悪魔憑依”と見なされる誤診の事例が多数報告されてきた。
ノアもまた、その沈黙と独特なふるまいゆえに「神に選ばれし者」だと一部の教師に崇められ、他方では「どこか常人とは違う」と畏れられた。
――そして人はこう囁いた。「神に選ばれし者は、悪魔にも魅入られる」と。
「世界は意味ではなく、構造でできている」
彼が8歳のときにノートに記したその言葉を、教師たちは“啓示”と呼んだ。
両親は彼を普通の学校に通わせることを諦め、“神の言語”に導かれるまま、神学校へと送り出した。
そこでノアは、“祈りとは構造ゆらぎである”という異端の思想にのめり込んでいく。
それが後に、アポリア・マギア・コードの中核となる「祈り構文」理論の起点となった。
ノアは足元の破片を拾った。
それは、祈祷文が刻まれたガラス製のペンダントだった。
「これは……呪文封印媒体」
「ええ。でも、割れてる。中の構文は……消えてる」
ノアは天井を見上げた。
鏡のように磨かれた黒曜石の装飾。その中心に、何かが映っていた。
自分の顔ではない。
かつて死んだ仲間の一人――コードネーム“ベータ”だった。
「……やめて」
ヴェロニカがそっと彼の腕をつかんだ。「見てはいけない。ここは、記憶を再生する場所」
「じゃあ俺は、いつまで再生され続けるんだ?」
そのとき、部屋の隅からかすかな電子音がした。
彼が近づくと、床に落ちていた端末が起動した。
画面にはひとつの構造式が浮かび上がっていた。
《α→Ω》
《適応条件:未知》
ノアは無意識に囁いた。
「──Protocol Omega……」
ヴェロニカが震える声でつぶやいた。
「これ……まだ、続いていたのね。マギア・コードは、終わってなかった」
ノアの胸元で、CIAのバッジがわずかに揺れた。
Concealment Is Absent――隠すことは、もはやできなかった。
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