『アポリア・マギア・コード』第八章 其ノ五章 彫像の記憶と祈り
その空間には、重力がなかった。
言葉も、痛みも、命さえも存在しない。
ただ、“光の濃度”だけがすべてを定義していた。
ノアは――沈黙の扉を越えた先で、“像”を見ていた。
それは彫刻だった。
天から降りそそぐ黄金の光。
その中心で、ひとりの聖女が天使に矢を突き立てられ、身を仰け反らせている。
閉じた瞼。わずかに開かれた唇。
その表情には、喜びと苦悶が交錯する一瞬の永遠が刻まれていた。
「これは……ベルニーニ……?」
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夜。子供の頃。
ノアはベッドの中で目を閉じても、なお消えぬ光景に囚われていた。
翼ある男が、矢を携えて女の胸を刺す。
だが、女は微笑みながら、光の中に溶けていった。
その顔には、何かを赦し、受け入れた者だけが持つ穏やかさが宿っていた。
「……誰なんだ、あれは」
少年だったノアは、その夢を誰にも語れなかった。
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――ローマ、深冬の午後。
神学校の巡礼研修で訪れたサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会。
観光客のざわめきの中、ノアはひとつの彫像の前で、時間が止まったように立ち尽くしていた。
《聖テレジアの法悦》。
まるで彫像が呼吸しているかのようだった。
天使は微笑み、手にした黄金の矢で聖女の胸を貫こうとしている。
その瞬間、ノアの脳裏には、かつて“あちら側”で見た夢の断片がよみがえった。
あの女性は、確かに――微笑んでいた。
恍惚の極みにおいて痛みを悦びに変え、神の名を呼ぶ者。
名もなき魂の、祈りの形がそこにあった。
「先生……なぜ彼女は、天使に胸を刺されようとしているのに、あんなにも美しい表情をしているのですか?」
隣で見守っていた神学講師が、ゆっくりと口を開いた。
「それは、“恍惚の神学”と呼ばれるものだよ、ノア。
神に魂を捧げるとは、すなわち“自我の死”を意味する。
この像は――神の愛によって殺されることを悦びとして受け入れた聖女の、魂の合一を表しているんだ」
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ノアは、ようやく気づいた。
これはただの彫刻ではない。
“他者の祈りによって魂が昇華された瞬間”を、石に封じた記録だった。
彼の心が震える。
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ノアはかつて――悪魔に取り憑かれた。
そして彼を救ったのは、名もなき一人のエクソシストだった。
男は最後までノアを庇い、自らの命を捧げて、悪魔を祓った。
ノアは助かり、彼は死んだ。
だがその直後、ノアの魂の一部は引き裂かれ、異世界へと転生した。
現実では数時間だったが、“あちら”では数年間を生きた。
戻ったとき、彼の記憶のほとんどは失われていた。
それでも、“他者の祈りによって生還した”という記憶だけは、魂の深層に刻まれていた。
ノアは知らない。
あの時、命を捧げたエクソシストの魂が“聖人”として《アポリアの書》と共鳴し続けていることを。
そしてその祈りが、彼自身の魂を“鍵”として目覚めさせ始めていることを。
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祈りの記憶。
彫像に刻まれた魂の記号。
そして、夜の闇に漂う――あの微笑の幻影。
「もし、魂に“名前”があるとしたら、それは神に呼ばれるためにある」
少年だったノアは、その意味を知らなかった。
だが今、その言葉が骨の奥まで染み渡っていく。
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ノアは思った。
いま目の前にあるこの《聖テレジアの法悦》は――彫刻ではない。
それは“構造が記憶を刻んだ痕跡”だった。
神の名がまだ定義されていなかった時代。
人々は“身体”を通して神を感じ、
言葉ではなく感情の崩壊によって信仰を燃焼させていた。
そのバロックの記憶は、“構造式”の中に封印されていたのだ。
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天使は言葉を持たず、矢を持っていた。
その矢は“信仰の中心”ではなく、魂の断裂点――すなわち「魂のアンカー」を貫いていた。
「信仰とは、矢そのものではなく、“刺さったという記憶”である」
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その瞬間、ノアは自らの記憶を垣間見る。
自分もまた、言葉を封じられたまま、何かに貫かれていた。
それは恐怖でも、愛でも、赦しでもない。
「名前を奪われた瞬間」だった。
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「“Ω”とは、神の最後の言葉ではない。
“言葉になる前の沈黙”である」
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聖女は浮かび、恍惚とともに崩れていった。
その姿は、永遠に語られぬ“名もなき信仰の証明”だった。
ノアは目を閉じる。
彼の内側で、“構造”が確かに震えていた。
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